尾崎:皆さん、こんばんは。今から第2部としてパネルディスカッションをいたします。私、モデレーターをさせていただきます立教大学の尾崎と申します。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
最初に、このパネルをどういうふうに進めたいかということについて簡単にご紹介いたします。まず、3名のパネリストに自己紹介を兼ねて簡単にお話をいただいた後、2つのテーマを立てました。きょうの全体のテーマは「未来を拓く女性たちへ」というものです。したがいまして、このテーマにふさわしいパネルディスカッションのサブタイトルとして、1つ目は、未来は、世の中はどちらに向かっているのか、それに対して我々はどう未来を拓いていくことができるのかというテーマです。その後、このパネルディスカッションはそもそもリーダーシップ111主催のパネルディスカッションですので、2つ目はリーダーシップと絡めまして、未来を切り拓くのにはどういうリーダーシップが必要だろうか、こういうことを考えてみたいと思います。
ではまず、私が誰かということからやらせていただきます。
まず、「未来を拓く女性たちへ」というテーマで、何でこういうおじさんが出てくるのかと皆さん不審に思っていらっしゃるかもしれません。恐らく私がこの4名の中で一番このテーマに遠いのかなと私自身も考えておりました。でも、私は立教大学の経営学部というところで国際経営を教えておりますが、このテーマには常に関心を持っております。なぜかといいますと、2つ理由があります。
1つは、国際経営という分野ですけれども、これは基本的にはダイバーシティ・マネジメントなんです。さまざまな国の人たちの社員を組織に抱えて、どういうふうにして国際経営をやっていくかということですから、まさしくダイバーシティ・マネジメントです。もう一つ、国際経営は別の切り口がありまして、いろんな国の経営のやり方を比較するということもやっています。そうしますと、やはり日本の経営というのは非常に男性中心で、世界中の国の中でも極めて特殊な経営の仕方をやってきて、一通りの成果を上げてきましたが、だんだんそうも言っていられない時代に入ってきている。これが私の研究のテーマから非常に関心を持っている分野です。
それに加えまして、大学の社会科学という分野、経営学とか政治学とか経済学ですけれども、通常は男子学生が多い分野にもかかわらず、立教大学の場合、群を抜いて女子学生が多いのです。およそ半分もの女子学生が経営学を学び、国際経営だのリーダーシップだのをたっぷり勉強して社会に巣立っていくので、彼女たちに大いに活躍してもらわなくてはなりません。またぜひ日本の会社が彼ら、彼女たちを存分に使いこなしていただきたいと願っています。そういう意味でもダイバーシティ・マネジメントに関心を持つようになりました。ここまでが私のモデレーターとしての自己紹介です。
では、ここから先はきょうのパネリストの荒木様、内永様、漆様に、ご自分のお立場とこの「未来を拓く女性たちへ」というテーマとの絡みで自己紹介を簡単にお願いしたいと思います。
荒木:皆さん、こんばんは。日立製作所の荒木と申します。
今、先生のほうからちょっと難しい自己紹介の仕方、テーマに絡めての自己紹介をと言われたので、どうしようかなとちょっと迷っているのですが……。先ほどの内永さんのご講演の中で、ダイバーシティがなぜ必要なのかというお話がありました。女性の活躍もダイバーシティの最初の一歩というお話でしたが、いろいろな組織で働くとかいろいろなところに行くと、当然そこの組織なり、あるいは地域なりの文化があり、お作法がありということがあって、その価値観のぶつかり合い、こういったところからいろいろおもしろいものが生まれてくる時代になってきたのかなと思いながらお話を伺っていました。
私自身は大学を、一応私も工学部でございまして、ただ、工学部とは言っても、内永さんのように物理という立派なものではなくて、都市工学という文化系だか理科系だかよくわからない学問を勉強いたしました。就職のときにも「一体どっちですか?」って言われ、就職先でもいろいろ苦労したのですが、経済産業省、そのときはまだ通産省というふうに言っておりましたけれども、霞が関の官庁に入りまして約30年近く勤めておりました。
通常の男性は、今は少しずつ変わってきていますけれども、自分の入った省庁で順調にポスト、階段を駆け上がっていくというのが通例だったわけですが、私は外にいっぱい出されました。割と若いときに留学もさせていただいたのですが、それも大変大きな私にとって価値のある経験でしたけれども、戻ってきたところでいきなり他省庁への出向を命じられました。それも君はもしかしたら帰ってこられないかもしれないから、向こうに行って骨を埋める気になって仕事をしてこいと。他省庁への出向は、今ではそんなに珍しいことではないですが、その当時はあまりなくて、男性がそんなことを言われたら、えーっ?!という感じになるぐらいのことでした。でも私は、そうか、じゃあ、骨を埋めるつもりで仕事するか、という感じでしたけれども、何のことはない、2年ぐらいでちゃんと戻してもらえました。
それ以降も、私は子供が2人いるのですが、育児休業も休業制度ができたときにはとりましたし、外郭団体に行ったり、その後も国土交通省へ行ったりとか、ご紹介にあったように山形県にも行ったりと実に多彩に動きました。山形県には縁もゆかりもなくて、全く文化も違うところに参りましたので、東京から来た人が県庁でいきなり副知事ということで、もちろん注目もされるのですが、非常に厳しい目で見られるということもございました。山形はとてもいいところで、県民性も実直なのですけれども。
毎回毎回違う文化のところに行って、毎回その文化にある種適応するところもありますが、逆に私がここにいて価値を発揮できるのは、過剰に適応するよりも、何か違うことを言ってみたほうが貢献できるのではないだろうかという姿勢で、この30年間をやってきました。2年ほど前に日立製作所に入り、初めて企業で働くという経験をさせていただいていますけれども、これもまた私にとってみると、毎日が新鮮な驚きでいっぱいです。本当に素朴な質問をして、お互い驚くという毎日ではございますけれども、そんな形で仕事をやってきております。
したがって、私自身は常に違う文化の中である種苦労しながらも、でも非常に楽しく仕事をしてきて、もしかすると多少はお役に立ったかなというふうなキャリアを築いてきています、ということで、自己紹介にかえさせていただきたいと思います。(拍手)
内永:先ほどはダイバーシティを私の経験をベースにお話ししたのですが、あまり自己紹介をしていなかったので、簡単に自己紹介をします。
私自身はともかくIBMに37年間いて、開発製造部門のトップでIBMを引退しました。その後はベルリッツというランゲージサービスの会社のグローバルのCEOをやり、昨年そこをリタイアして、今はJ-Winの理事長一本やりで頑張っています。私は、IBMの中で女性を活用しなければいけないということで、一人のロールモデルとして会社が手を変え品を変え、いろんなチャンスをくれて、何とか生き延びて専務までつとめました。
IBMという会社は徹底的にグローバルな会社ですが、私が入った頃はまだそれぞれの国の自由度というのが割とありました。それを私どもはマルチナショナルカンパニーという言い方をしていました。ところが、世界がどんどんグローバル化し、お互いがつながって小さくなっていくことによって、IBMもグローバルのオペレーションを一体化しようと、ヘッドクォーターからのディレクションがとても強くなってきて、ローカルのそれぞれの国の自由度というのがどんどん少なくなってきたのです。
そういう中で私は開発製造をやってきて時にはわけのわからない外人の上司が来て、ディレクションが決まったら従えと、偉そうなことを言うのですが、全然従わずにおかしいと文句を言いましたら、「ジャスト・ドゥー・イット」って、こういう感じでした。それで、あなたは私にダムヘッドになれっていうのかって聞きました。ダムヘッドって、ばかということですけれども。そうしたら、イエスと言うのですね。それで私は言い返しました。そういうことを言うなら、入社のときに言ってほしい。私にダムヘッドになれ、おれの言うとおりに実行しろなんて、そんな会社だったら私は入らなかったと言ったのです。その人はIBMをやめていきましたので、よかったなと思うんですが……。
そういう中でつくづく思ったのは、グローバル企業の中で本当にやりたいことをやろうと思ったら、自分がグローバルのトップにならないとだめだということでした。そういうのを実感し、ダイバーシティの大事さもわかり、今の世の中がすごく変わっていく中で、新しいモデルを考えなきゃいけないと身にしみて考えて……。そんなときにベルリッツという会社からお声がかかったんです。ベルリッツという会社はランゲージサービスの会社ですが、私、あまり英語が得意じゃないんですね。ソーシャル英語は得意ではないので、ベルリッツのCEOというのはちょっと申しわけないとは思ったけれども、引き受けました。
ランゲージがやりたかったのではなく、グローバルのCEOというのが魅力的だったのです。グローバルのCEOで、なおかつアメリカに行かなくて済む、日本でやれる、こんないい条件はないと思いました。ベルリッツのヘッドクォーターというのはニュージャージーのプリンストンにありますが、強引に「私のいるところがヘッドクォーターよ」とか言って、東京にヘッドクォーターを作り、グローバルのCEOを6年間やりました。すごくおもしろかったですね。世界中、70カ国、ビジネスやっていましたけれども、何たって私の言うことをみんな聞いてくれるわけですよね。それで、ダムヘッドになれなんて、そんなことを言う人は誰もいなかった。でも、やってみると、株主というのがいるのです。それで最後にわかったことは、うん、やっぱり株主になろうと。自分が株主にならないと、おもしろいことはできないということで、実はJ-Winもほとんど私、株主みたいなものですけれども、GRIという会社を100%株主で今やっています。
私のリーダーシップスタイルというのは、非常にはっきりしていまして、まずビジョンを決める。非常にクリアに自分のビジョンを決める。決めるまではうんうんうなっていろいろ考えるのですが、一端ビジョンをつくるとそのビジョンに向かってただひたすら走り続けるということです。ただし、一番のベースは、基本的には徹底的に考える、どうしてそうなの、なぜ、なぜ、なぜと。本当によく考えると、皆さんもご経験あるかと思いますが、頭のてっぺんが熱くなるんですよね。本当に熱くなります。だから、考えない人を見ると、「頭のてっぺんに手を置いて、熱くなっているかどうかみろ!」って言います。私は徹底的に考えます。考えて考えて考えて、考え抜いて、これだと思ったら、あとは誰が何と言おうと簡単には引きません。
よく考えるというのが私の信条なので、ぜひそういうことにご興味のある方はまたお声をかけてください。以上です。(拍手)
漆:皆様、こんばんは。品川女子学院という女子校の校長をやっております漆と申します。ちょっと堅い話をするモードで来たのですが、内永さんの話に触発されまして……本音で自己開示しようかなと思います。
まず、なぜ校長をやっているかということですが、これは消去法で人生を選択していたらここまで来たという感じなのです。私たちの学校は89年前、大正時代の創立です。女性に参政権がなかった時代に、女性たちが集まってつくった学校です。関東大震災のときに避難所を女性が設営したことをきっかけにできた学校です。そこをつくりましたのが私の曾祖母で、それで代々という感じで私学をやっております。ところが昭和になりまして、結構、経営は厳しかったのです。その両親の背中を見て育ったので、学校経営だけは絶対嫌だと思いました。ただ、教員としての両親の背中も見ておりましたので、教員になりたいと他校の教員になって、自分の学校には近づかないという感じで生きてきたのです。
それが27歳のとき、勤めていた学校の同僚に「あなたの実家の学校、大変なことになっているよ」って言われました。都議会の資料というのを見せられて、廃校危険指数が書いてありまして、縦軸と横軸の片方が財産で、片方が応募者数だったと思うのですが、なんとトップの方に入っていた。つまり廃校の危険が非常に高いということです。これは大変なことになっているなと思って、実家に行ってどういうことなのか聞こうと思ったら、学校の経営者でもある母から別な話をされました。「私、癌になったのよ」と。そのときに、余命は6カ月と言われたのです。2つの重大なことが同時に私に起きました。
両親は私に戻ってこいとか手伝えとか一言も言いませんでした。なので、誰にも頼まれなかったのですが、しかも当時私はまだ3年目の教員で、文学部を出てすぐという感じでした。何の力もありません。何の役にも立ちません。ですが、そのときに初めて人生についていろいろ考えました。勤め先の学校は本当に私に合う学校で、生徒ともうまくいくようになって、天職だなと思っていたくらいです。一方で、実家の学校の教員や卒業生たちとも家族的につき合ってきましたので、そういう状況にあるというときに、どっちをとるのが幸せなのかなと考えました。でも答えがでなくて、どっちが後悔しないかと考えました。いろいろ考えて、やっぱり自分は「人が不幸になって自分だけが幸せだと、幸せと思えないタイプ」なのではないかな?と思って、実家の学校に戻るということを選択しました。
それからの改革が本当に大変だったのです。戻るちょっと前頃は、中等部の1学年人数が5人というときがあったんですよ。1学年5人!中学受験の偏差値表を見ましたら、ない。測定不可能だったのです。そこからみんなの力で改革をして、誰一人強制的にやめさせずに、共学化もせずに、7年たったときにはのべ1,800人ぐらい応募者があって、偏差値が20ぐらい上がっていました。
今は創立の精神を実現するために、人生を自分の力で選べるような人、社会を支えてゆく女性を育てる学校にしたいと、28歳を一つのゴールイメージにして、大学、その後の人生で、子供を生むことも、それから仕事をすることも、どちらもあきらめないで済むような中等教育をしていこうと思ってやっています。(拍手)
尾崎:ありがとうございました。
3名とも非常に豊かなご経験をお持ちで、その当時ではまさに未来を切り拓いてきた、そういう3つのお話でした。そこで、その延長線上で、さてこれからは我々の未来をどうやって切り拓くかについてお話を頂きたいと思います。そもそも未来といっても、無限の可能性があるのでしょうが、最初に、我が国はとか私たちはどちらの方角に向かっているのか、その中でどういう未来を誰がどういうふうに切り拓いていくことができるのか、それぞれのお立場で、あるいはご関心の分野でお話をお願いできればと思います。
このセッションでは質疑の時間もとりますので、今からのお話に基づいて、会場の皆さんとダイアログもさせていただければと考えています。
荒木:未来、ということですけれども、私自身が大学を卒業して就職をしたのは、かれこれウン十年前でございまして、そのころに自分が30年後をどう思っていたかというと、例えば女性の活躍といったときにちょっとはましになっているかなぐらいは思っていましたが、今のこの時点の世の中というのが、こんなふうになっているとは正直想像もできませんでした。ですから、近い未来というのは描けますが、10年後とか20年後、特に若い方々が中堅になって世の中を支えていく20年後がどうなるのか、正直言ってよくわからない。逆に言うと、多分、今の私たちが考えている延長線上にはないのではないかというふうに思ったりしています。
これは仕事の中でも感じていることでして、例えば、絶対に役に立つはずがないと自信満々に言っていたことが、何年か後にひっくり返るという経験をいくつもしています。一例をご紹介すると、今でこそ世の中を席巻している感の太陽光発電とか再生可能エネルギーです。私自身、ちょうど子供が生まれた直後ぐらい、1990年前後ぐらいに太陽光発電とか風力発電とかの研究開発を担当しろと言われました。私が開発するわけではなく、人に開発してもらうのですけれども、それを普及する施策をつくり、普及をするという業務でした。
そのときに、私自身、頭がどこまで熱くなっていたかわかりませんけれども、どうしたらいいかと相当考えて、相当頑張りましたけれども、大方の人は、まあ風力、風車みたいなものをモニュメントとしてどこかにつくるのはいいけど……とか、太陽電池も衛星か何かのパネルとか、あるいは電線が行かないような灯台とか、そんなところにしか使えないのではと、コストが非常に高くて、普通の生活の中でそんな高いものを使う人がいるか?と言われていました。
私は、余り根拠があったわけではないのですけれども、いやいや、わからないですよ、10年後ぐらいになったら、日本中の屋根の上に太陽電池って載っているかもしれませんよと。風力についても、ヨーロッパでは結構大きな風力発電所がぽちぽち建ってはいたので、だから日本にもああいう大きな風力発電所ができるのではないですか。技術立国日本なのですから、日本の風力発電所をつくろうじゃないですかとか言ったら、いやいや、日本は国土が狭いし、あんな大きな風力発電所建たないよと。相当がんばって一生懸命予算をとったりしようと思ったのですけれども、当時は理解を得るのが難しかった。
先ほど内永さんは妥協しないとおっしゃいましたが、私は途中で、ゼロよりは半分でもとれたほうがいいかなと思って、もともと1,000キロワットの予算をとろうかと思っていたのを、ちょっと割って半分の500キロワットでも、なんていう感じでやって、後ですごく後悔しました。ところが10年後、同じ仕事に戻ってきたら、世の中は全く一変しておりまして、本当に屋根の上には太陽電池が載っていて、日本のあちこちに風力発電所がくるくる回っているという時代が来ていたのです。というようなことを考えると、今の自分のところからそのまま延長線上で未来を描くというのは違うと思っています。
これからは、非常識とか、「そんなことできる?」というふうに思われても、そういうことが言える、あるいは言い合える、そういう社会でなければならないと思います。かつ、そういったちょっとおかしなこととか、今の延長線上じゃないところのことを考えられる、そういった人たちが活躍するのかなと。それは企業に限ったことではなく、今の若い人たち、草食系とか言われていますけれども、私たちの世代とは違った価値観で世の中を変えてきているというところもあると思っていますので、今は想像もできない世の中ができるのではないかと楽しみにしています。
内永:本当、未来を予測するのは難しいですよね。先ほどのムーアの法則じゃないですけれども、10年で100倍よくなるということで考えると、下手に考える必要はないのかなとは思うものの、ただ、さっきもお話ししましたように、物理的な距離は変わらないけれども、地球が論理的にはどんどん小さくなってくるということは言えると思います。
それから、やっぱり日本の人口。出生率を上げようと努力はしていますが、そんなに増えるわけではないと考えていくと、日本の企業はいろいろな強みもあるし、どんどんイノベーションをして、どんどん世界の中で活躍するだろうと思いますけれども、そこで働く人たちは、日本人がマジョリティではなくなるだろうと思います。日本中に世界の人たちが入ってきて、女性も当然頑張り、そして日本人も世界に出ていくでしょう。要するに、日本という国にとどまっていた日本人が、これからはドーッと世界に出ていくでしょうし、反対に外国人が日本に大量に入ってくるでしょう。
そうなってくると、昔から疑問に思っていることが1つあるのですが、「国って何だろう?」ということです。民族とか文化っていうのは、これはあります、分かります。でも国って、勝手に国境線を決めて、ここを日本として憲法もあって……ですが、私に言わせると、国っていうのはサービスを私に提供してくれている一つの単位、そのサービスの対価が税金だと思っているのです。だから、その税金に見合うだけのサービスをしてくれないなら、ほかの国へ行く!今、企業はそう思っているわけですよね。
そういう意味では、日章旗を見て涙を流したりはしますけれども、国という概念がこれから10年、20年たつと、すごく変わってくるかなと思います。むしろ、民族ですとか文化ですとか宗教観ですとか、自分のバックボーンを支えるもの、それがコミュニティとしては強力になってくるでしょう。税金の高い国になんかいたくないとか、そういうふうになってくると、多分、世界中の税金って均一化してくると思います。だって、税金の高いところにみんな行きたがらないですから。それから、TPPにしても何にしても、関税は大体もう均等化してきますから、そうすると、国をまたいだ関税ですとか、それから国の中の税金ですとか、そういったものが均一化してくると、国っていうものの存在というのがとても稀薄になってきますね。
そういう世界になってくると、実は日本人だけじゃなくて世界中の人が、日本人だとか日本の国民だとかいうよりも、内永ゆか子という個人のアイデンティティがすごく大事になってくる。日本人もいて、中国人もいて、外国の人がいっぱいいる中で、それぞれが自分のアイデンティティをどれだけちゃんと持てるようになるのかということが、これからはすごく求められてくると私は思います。
特にITでありネットワークであり、世界中のみんなつながってくると、「私もそうです」という人は、極端な言い方をすると、存在意義がだんだん薄くなってくる。これからとっても大事なこと、特にリーダーにとって大事なことは、やっぱり倫理観であり歴史観であり、そして宗教観というようなところで自分のアイデンティティを持っていることがすごく大事だと思います。そういう意味で、日本人は明治時代くらいまでは結構しっかりとあったのですけれども、第2次世界大戦でバラバラになってしまったので、日本人としてというよりは個人として、それぞれの人たちが自分自身のアイデンティティというのをどうやってつくり上げていくかということがすごく大事じゃなないかなと思います。
加えて、元ベルリッツだからいうわけではないですが、絶対に英語は必要です。OECDだとかAPECだとかいろんなところへ行くと、いろんな国の首相がインタビューを受けて、結構小さな国の首相とか大統領が、きれいな英語を話しますよね。逆に言うと、国が小さいだけに、GDPが小さいだけに、外へ出ていかざるを得ないから、結果として英語を話さざるを得ないということでしょうか。日本語の美しさというのはこれはこれですばらしいですけれども、さっき言ったような世界になったときに、コミュニケーションツールとして英語がしゃべれないというのは、大変不便ですよね。ということで、今の若い人にとって英語は絶対に必要です。だまされたと思って英語をやってください。英語はマンダトリーファクターですよ。それから、ITも絶対必要です。
尾崎:いきなりグローバル化、そして脱国家とか脱ポストナショナルなど、非常に難しい話がばんばん出てきました。では、最後は漆様。
漆:荒木さんのお話で、過去の延長線上には考えられないと。あと、内永さんのお話で、国って何だろうという、今までの概念の先に子供たちの未来を考えてはいけないのではないかなというのが、まさに私が常に考えていることでした。30年先、世界がどうなっていて、日本がどうなっているのかっていうことをいつも考えて、「未来から逆算した教育」をしたいと思っているのです。少なくとも、過去を見てこれは失敗するからやっちゃだめとか、そういうことだけは言わないようにしています。
アメリカのデューク大学の研究で、今の小学生の65%は親の知らない職業につくというのがありますが、子供たちから教えられますね。もうどんどん変わっています。ITについて、中間テスト前の面談でこういう話が生徒から出たのです。中間テスト前にLINEが活発になると言うのです。なぜだと思います? 遊んでいるわけではありません。昔だったら、しっかりした子に「ノート貸して」と言っていましたね。あと、「プリントなくしちゃった。コピーさせて」とかを、LINEでやっているのです。その結果、何が起こると思います? 同じ間違いが大量に出るのです、一斉に回すから。
その話を聞いて、思い切ってそれをオープンの場にしてしまいました。すでに活用しているwebサービス上にそういう場を作ったのです、公式に。例えばこの間も、「国語総合の富嶽百景、わかんない」って誰かが言うと、奇特な子がプレゼン資料みたいなきれいなスライドをおもしろおかしくつくって、入れているのですよ。間違いがあると、教員が入っていって直してあげる。それから、試験前って教員への質問がすごく多くなる。並ぶのも大変です。それでまた奇特な子が自分が並んで聞いた質問をアップしたり、教員も何度も同じ質問に答えるのは大変なので、動画で説明を載せたりというような感じにもなっています。
そういうふうに考えていくと、「学校って何だろう?」というところまで行くのですね。多分、これからは知識というのは自分のものじゃなくて集合知になっていって、みんなの知識の上に重ねていくという世界になっていくと思います。ノートもレイヤーでどんどん重ねていくような感じで。アンケートもすぐとれるので、webを通してシンガポールとオーストラリアの学校と一緒に、お互いに同じ研究をしていくというようなことまで始めています。
子供たちがそういうことをどんどんやって、今まで箱だけで募金していた発展途上国の学校支援も、今はクラウドファンディングも同時に使っているのですよ。子供のほうが先に進んでしまって、慌てて私たち教員がIT研修を受けています。というのも、リテラシーがみんなバラバラなのです。学校現場も大きく変わってきています。
そういう変化の激しい時代の中で、私たちが何を大事にしたらいいのか、子供たちに言っていることが3つあります。変化の激しい中にいて、自分はどういう人で、何をしたいのかという自分軸をきちっと持ちたいということを言っています。もう一つは、大事なことは相談するなと言っています。相談すると、やっぱり軸がぶれると思うのですね。なので、まずは自分の軸に照らして直感で仮説を立て、それから、こうした場合にどうですかという意見を聞いてくれと言っています。3つ目が、「6割ゴー!」というのをうちの学校では合言葉にしていまして、スピードがやっぱり大事ですね。できるかどうか……なんて迷っているうちに、1年が過ぎてしまう。子どもの1年は二度と戻ってこない、卒業してしまいますから。なので、失敗してもいい、6割ぐらいまとまったら、やってみたらということでやっています。そうしたら最近は、「校長、3割ゴーになっていますよ」とか言われますけれども、それでもやらないよりはいいと、すでにそういう時代になっているのではないかと感じています。