「応援団」をいっぱいつくって、柔軟な気持ちでポストにトライして。
下村満子さん(85)
ジャーナリスト、下村満子の「生き方塾」塾長
1994年、30年勤めた朝日新聞社を退職し、フリーのジャーナリストとなる。同時に、両親が再興した、健康診断などを手掛ける一般財団法人・東京顕微鏡院の理事長に就任。大幅赤字のなか経費にメスを入れ、賞与の一部カットも断行し、黒字転換を果たす。その後、医療法人社団・こころとからだの元氣プラザを立ち上げた。
経済同友会では、女性初の副代表幹事を務めるなど、数々の団体幹部や政府の審議会委員も務めてきた。
目次
【後編】
【前編】はこちら
米コロンビア大で「性差医療」に出合い、日本に初めて紹介する
――朝日新聞社を退社して東京顕微鏡院の理事長に就任し、大きな組織を率いることになりました。
下村満子さん(以下、下村) 『朝日ジャーナル』の最終号は即日完売、増刷となり、きれいな幕引きができました。運命学者に言われた通り、このエンディングができたから次のステージにもスムーズに進めたのでしょう。
朝日新聞を辞めたあと東京顕微鏡院の理事長職に就き、男性中心の400人ほどのメンバーを束ねていくことになりました。『朝日ジャーナル』の編集部員は30人くらいだったので約10倍の人数ですが、『朝日ジャーナル』の経験があったから、私にとっては何でもないことでした。基本は一緒ですから。自分の信じていることを純粋に貫いていけば、それに賛同する人が集まってきます。
――退社後もさまざまな分野でリーダーシップを発揮された、手応えを感じたことは?
下村 医療にジェンダーの視点を持ち込んで、日本で初めて「性差医療」の外来を開きました。医療は長年、男性の治験データをもとにしていて、女性に対する医療は、その小型版でしかありませんでした。これに対して疑問を持ったのが、アメリカのコロンビア大学のマリアン・レガトです。彼女は循環器の専門医で、あるとき「胃が痛い」という女性患者に医学部で習った通りの処置をして胃薬を出したら、2時間後に死亡してしまった。治療法も薬も男女で違うのではないか、こんな問題意識をもって「性差医療」を世界で初めて提唱したのです。アダムには効いて、イブには効かない薬がある、性差を無視した医療は危ないと『イブス・リブ』という本を出版して全米でベストセラーになりました。
これを手にした私は、コロンビア大学まで彼女を訪ねて行きました。30分も話したら、もう意気投合してしまい、その後親友といえる間柄になり…。彼女を日本に招いて、有楽町マリオン(有楽町センタービル)で2日間に渡りシンポジウムを開きました。そして日本で初めて、性差医療の外来を開いたのです。レガトの著書の翻訳本『イブに生まれて』『すぐ忘れる男 決して忘れない女』という本も出しました。こうしたジェンダーに着目した医療への貢献が認められて、コロンビア大学医学部アテナ国際賞をいただきました。これも、リーダーシップを発揮したひとつではないかと思います。
リーダーは、ぶれない信念をビシッと持たなければならない
ジャーナリストとして、国内外の政財界トップにインタビューをしてきた。松下電器(現パナソニック)社長の松下幸之助氏、ソニーの盛田昭夫氏とは、『週刊朝日』の連載で出合い、その後「一生の付き合い」となったという。海外では、チェース・マンハッタン銀行会長デービッド・ロックフェラー会長、フォード自動車会長ヘンリー・フォード二世など、名経営者にインタビューをした。
――国内外のトップリーダーに取材してこられた下村さんが考える「リーダーの条件」を教えて下さい。
下村 リーダーシップというのはトータルなものなので、最終的には人を惹きつける人間的な魅力、人間力に行きつく気がします。リーダーにはいろいろなタイプがあって、ひとことで言えるような条件はありませんが、背骨の部分となる信念がビシッとしていないとだめですね。軸がなくて、何か言われるとあっちにフラフラ、こっちにフラフラでは、リーダーとして信頼されません。そして、私利私欲がないことです。
私が尊敬するリーダーのひとりは、京セラの創業者・稲盛和夫さんです。彼は日本航空の再生を任された時、役員室ではなく真っ先に整備場に降りて行って整備工の方たちとの対話から始めたと伺いました。みんなと一緒に床に座ってスルメ片手にビールを飲みながら、こんこんと語ったんです。「そこにある雑巾、1枚いくらだと思う?」「10円です」「みんな1回使ってポイっと捨てるけど、洗って3回使えばコストは3分の1になるよ」って。
部長とさえ車座で語り合ったことなんかないのに、社長が床に座って一緒に飲んで喋ってくれたのだから、みんなひっくり返るほど驚いたようです。そして「稲盛のためならエーンヤコラ!」と、翌日から雑巾に使うために古くなったパジャマやタオルを家から持ってくるようになったそうです。
稲盛さんはトップダウンではなく、現場の人たちの中に入って、現場で汗する人たちにもできることがあると説得することから始めました。そうして考え方が変わってボトムアップで会社が変わっていく。これはリーダーシップのひとつのやり方ですが、私の抱いている哲学と基本的に同じですね。
銃弾の飛び交うなか押し入れに隠れていた満州での子供時代
――どうすればそんな風に人を惹きつける人間力をつけられるのでしょうか。
下村 人間力は人それぞれなので、ノウハウはないし教えるものでもありません。受けた教育や生まれた家庭、親の影響も大きいし、先生や友達との縁、病気やけがなどの体験から学ぶことも多いでしょう。良い環境で育てばいいというわけではなく、ぐうたらな親を反面教師として素晴らしい子供が育つこともあります。
私は1938年、生後2ヵ月のとき中国・満州に渡りました。父が満州鉱山で働くことになったのです。私の記憶は、第二次大戦の終戦直前からしかありません。中国人による略奪が始まり、目の前で人形やおもちゃ、洋服が強奪され、家も奪われました。雨漏りがするぼろ家での仮住まいとなりました。父は民間人引き上げの責任者となり、ソ連や中国と交渉に当たっていました。
市街戦が続き家の中にも流れ弾が飛びこんでくるので、押し入れの前に布団を積んで弾よけにして、中に潜んで暮らしていました。そんななか、医者だった母は怪我をした日本人ばかりか、中国人の手当にも呼ばれ、あちこちに出かけていきました。母ひとりで行かせるわけにはいかないと父も一緒についていきました。
朝起きて窓を開けると、たくさんの死体がころがっていました。信じられないでしょうが、それが日常だったのです。民間人最後の引き揚げ船に何とか乗り込むことができ、船底ですし詰め状態となって日本に戻りました。九州・佐世保から、祖母の待つ福島・二本松まで、これまたすし詰めの汽車で長い旅。途中、原爆で焼けただれた広島の光景を目にして衝撃を受けました。この戦争体験が、私のベースにあります。7歳にして極限と向き合い、生と死と向き合ったことが私のジャーナリストとしての原点で、今日にいたるまで「生と死」は私の根源的なテーマになっています。
今生きているのが不思議なくらいの状況を生き抜いてきたから、おそらく根底に「私は一度死んだ」という意識があるのでしょう。仕事で大変な局面はたくさん経験しましたが、戦争体験のおかげで、いつも「失敗しても、死ぬわけじゃないから」と腹をくくれるのだと思います。
“女性初”の私が失敗したら「やっぱり女はダメだ」と言われる
2011年、東日本大震災、福島原発事故を受けて、「下村満子の生き方塾」を立ち上げ、「命とは何か、生きるとは何か、人は何のために生きるのか」というテーマを追求する。稲盛氏の「盛和塾」理事として、後進の経営者支援にも当たる。2022年には、YouTube「Mitsukoの部屋」を開設。「30代ながら老後が心配です」「海外での仕事を経験したい」といった、男女の悩みに答えている。
――リーダーになることをためらう女性もまだ多いのですが、下村さんは「女性初」の登用に二の足を踏んだことはなかったですか?
下村 私が働き始めたころは、男性の3倍くらい努力しないと男性並みの仕事をさせてもらえなかったし、そこを乗り越えないと先には行けませんでした。『朝日ジャーナル』の編集長になったときも、何度もやめようと思ったんですよ。男性社会の中で、女性編集長のあり方を自分で作っていかなきゃいけなかったから、しんどいことも多かったし。でも、「みんな応援してね」って周囲を巻き込み、ダメ元で面白がって突き進んでやり切りました。先ほどもお話した通り、失敗しても命までとられるわけじゃないですから。
私を特派員に登用する際に「女に特派員は向いていない」と社内でかなりの議論になったそうです。もし私が失敗したら絶対に「下村満子に能力がなかった」ではなく「やっぱり女はダメだ」と言われたでしょう。ですから私は後に続く女性たちのためにも、必死でやらざるを得ませんでした。まだ過渡期だったので、ちょっとしんどくても、自分が引き受けることで後に続く女性たちに道をつけたかったのです。
――最後に、次世代を担う女性にメッセージをお願いします。
下村 いろいろお話ししてきましたが、今私が強く感じているのは、これからの女性のリーダーには、ぜひ「女性リーダー」とか「女性リーダーの在り方」「女のリーダーシップ」といった「女」という言葉がつかない、「リーダーの在り方」「優れたリーダーになるには」という課題に取り組んで頂きたいと思います。
つまり、私たちの時代からこれまでは、どうしても女・女がついて回ってきましたが、元々私たちは女も男も含めて「人間」なのです。たまたま「人間」という大きなくくりの中で考えると、「女」とか「男」ということ以前に「人間として正しいことはなにか」「素晴らしい人間とはどういう人間か」とか、「リーダーとしての条件とは何か」といった、性別を抜きにした「人間」という観点から論じられるべきだとかねてから思っていました。
ただ初期の段階では、そうしたことが難しく、女性が社会に出て活躍すること自体が非常に難しかったので、女性ということを強く訴える必要がありました。しかし、これからは女も男も関係なく、素晴らしい人間が素晴らしいリーダーになるというのが本来の姿だと私は信じています。
もちろんその中でたまたま「女性に生まれた」、たまたま「男性に生まれた」ということですが、男と女は平等であり対等ではあっても、同一ではありません。そこのところを何かこれまでの女性の運動の中には混乱している方たちもいて、男のようにふるまったり、男のために出来た社会の在り方の中で、男のようなリーダーシップを発揮したりすることが女のリーダーの姿になっている部分もあると私は時々感じます。これからの女性たちにはぜひ、その壁を破って頂き、女も男も同じ人間として対等に、自然体のまま、より素晴らしいリーダーが社会のリーダーになるんだという方向性を追求して頂きたいと強く願っています。
ミニ Q&A
Q いつもお洒落ですが、好きなブランドは?A 今日は、皆さんご存知のイッセイ・ミヤケ。いま注目している新しいデザイナーもいます。すごく面白い、びっくりするような服。とにかく変わった服が好きなんです。
Q 素敵なオフィスですね。可愛い人形に、スタイリッシュな楕円のような机。天井からモビール。A 人形は私の子どもたち。家具は、フランス人のデザイナーさんにお願いしました。Q 心と身体を健康に保つ秘訣は?A 毎日、坐禅を組んでいます。小学校5年のとき父に勧められ、今朝も 25 分くらい。坐禅は心の柔軟体操。怒り、悲しみ、不安を消してくれる。1 日5分でもその間は仏様になれます。
しもむら・みつこ 1938年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。ニューヨーク大学大学院修士課程修了。1965年に朝日新聞社入社後、週刊朝日記者、朝日新聞ニューヨーク特派員、朝日ジャーナル編集長、朝日新聞編集委員を歴任。日米関係、国際問題、経営、政治、教育、医療、女性問題、ジャーナリズム論、生き方論など、幅広い分野の執筆を手掛ける。
海外では、中近東、アメリカ、ヨーロッパ、中国、旧ソ連などで取材、政財界のトップインタビュー、世界各国のルポルタージュなどに取り組む。1982年、ボーン・上田記念国際記者賞を女性で初めて受賞。1994年フリーのジャーナリストに。同時に両親の事業を引き継ぎ、一般財団法人東京顕微鏡院理事長に就任、続いて医療法人社団「こころとからだの元氣プラザ」を設立する。
『アメリカ人のソ連観』『ソ連人のアメリカ観』『編集長・下村満子の大好奇心』など著書多数。ソニー創業者である盛田昭夫との共著『MADE IN JAPAN』は世界的ベストセラーとなった。
(動画/ベイビー・プラネット、写真/竹井俊晴、文/加納美紀、インタビュー/野村浩子)