女性初の編集長となるも休刊へ。
「幕引き」で成長する
下村満子さん(85)
ジャーナリスト、下村満子の「生き方塾」塾長
「リーダーシップ111」(以下LS111)は1994年、経済界、官庁、メディア、アカデミズムなど、各分野でその名が知られる女性たち約60人が集まり発足した。「リーダーシップの新しいスタイル、新しいフレーム、新しいパラダイム」を切り拓こうと、勉強会やシンポジウムの開催、海外視察などを行ってきた。会の立ち上げを最初に呼びかけたのが、ジャーナリストの下村満子さん。朝日新聞社で女性初の海外特派員としてニューヨークに赴任、のち朝日ジャーナル編集長となり、道なき道を切り拓いてきた、女性リーダーの先駆者である。
目次
【前編】
【後編】はこちら
職場で女性は孤独、つぶされないように助け合いたかった
――最初に、LS111を立ち上げたきっかけを教えて下さい。
下村満子さん(以下、下村) 実はね、30年前は女性のリーダーシップ云々という状況とはほど遠い時代だったんですよ。もちろん当時も活躍している女性はたくさんいましたが、通産省には川口順子さん(のちの外務大臣)、総理府には坂東眞理子さん、そして朝日新聞社には私というふうに、いろいろな組織に1人ぐらいしか女性(リーダー)がいませんでした。
日本の組織って、出身大学で学閥を作っているでしょう? 私が所属していた朝日新聞社では、どの支局でスタートしたか、どの部署に所属しているかもネットワークの源泉で、同じ派閥の仲間と酒席で情報交換し、自分の部署に引き抜いたりすることもありました。そういう状況の中に女が入ってくると、邪魔っけですよね。女というだけで排除されて、飲み会にも声がかかりません。女性が活躍していると、対外的には名前が知られたりちやほやされたりしますが、組織の中では極めて孤独な「野中の一本杉」だったわけです。
いろいろな組織で活躍している女性たちと話すと、エリートであってもネットワークはなく、孤独な野中の一本杉で頑張っていることが分かりました。そこで、一本杉の女性同士で連携し、それぞれの組織の中で潰されないように、情報交換をしながら上を目指そう、と。今でいう女子会のように、みんなで集まっておいしいものを食べ、心置きなくいろいろな話ができるネットワークを作りましょう、と呼びかけたら、「いいわね」「やりましょう」ってことになったんです。
それぞれ自分の知り合いに声をかけ、最初は100人の予定でしたが、「111っていう中途半端な数字のほうが面白いんじゃない?」ということになって。ワンワンワン!と、犬が吠えるように元気に議論したり声を上げたりしていこうという意味も込めて「LS111」と名づけてスタートを切りました。
福島でのシンポジウムには豪華メンバーが集結
――LS111で特に印象に残っている活動は?
下村 発足以来、毎年11月1日(111)にシンポジウムを開催していますが、中でも思い出に残っているのは、2008年のシンポジウムです。私は父の実家がある福島・二本松にある福島県男女共生センターで館長を務めていて、そこで開催したんです。男女共生センターとLS111が連携して分科会なども行い、たくさんのメンバーが参加してくれました。弁護士の林陽子さん、元NHK副会長の永井多恵子さん、医師の大森安恵さんなど。歩いてすぐのところにある私の先祖の家にも皆さんが来てくださって、とても思い出深いシンポジウムになりました。
先ほど申し上げたように、私が会を立ち上げた動機はすごく低レベルでした。でも情報交換したり助け合ったりするだけではダメだから、発信していこうということになり、年1回はシンポジウムを開くことにしたんです。第一線で活躍している女性が多いのに、この30年の間、ずっとシンポジウムや勉強会が続いています。私をはじめ80代で現役という会員も多い中で、これだけ長く続いているのは素晴らしいことだと思いますよ。
米国の大学院出身でも、新聞社では「アルバイト」採用
ニューヨーク大学の大学院を修了したのは1964年、東京オリンピックの年である。そのころ大企業ではまだ、女性は結婚とともに退職すべしとする「女性結婚退職制」が続いており、これを不服とする女性が訴えを起こしていた。男性と同じ仕事をしたいと思う女性に対して、企業の門戸はかたく閉ざされていた。
――米国の大学院を卒業して朝日新聞社で働き始めたときは、アルバイトからのスタートだったと聞きました。
下村 当時の正社員採用は新卒だけで、アメリカの大学院を卒業した私は新卒扱いにならなかったんです。どうしようかと思っていたら、近所に住んでいた朝日新聞社の名物記者・門田勲さんが「通訳を募集しているからやらないか」と声をかけてくださって。東京オリンピックで「有名な選手に会えたら嬉しいな」とミーハーな気持ちで始めました。
最初は女子選手村で、女性記者に同行して通訳をする予定でした。でも、女性の記者が少ないから手が足りなくなって、「お前、インタビューしてこい」って言われたんです。それで、いきなり英語でインタビューして日本語で記事を書いたら、それが全部新聞に載りました。他社は通訳を通しますが、私は直接インタビューしてすぐ記事が書けるので、マラソンで優勝したアベベ・ビキラ選手(エチオピア)のインタビューもスクープ並みの速さで書きました。通訳センターの方には「新聞記者になるために生まれたような人だ」と言われましたね(笑)。
そこで会社の人の目に留まって英文雑誌『This is Japan』の採用試験を受けることになり、狭き門をくぐって編集部に配属になりましたが、まだアルバイトでした。でも、私は書くのが好きで活字にまつわる仕事がしたかったから、アルバイトでも社員でも、どうでもよかったんです。その雑誌が休刊になって『週刊朝日』に行き、ブサイナ姫の大スクープを取って、初めて正社員にならないかと打診されました。
1973年、中東オマーンに、元国王と日本人女性を両親に持つ王女が王宮奥深くに暮らしていると聞き現地に飛び、ブサイナ王女のスクープ記事をものにして一躍スター記者となった。
――朝日に籍をおき8年、晴れて正社員になったのですね。
下村 いいえ。嘱託になりましたが、結婚していたので「子どもを産んでから本格的に働こう」と思って、正社員の話はいったんお断りしたんです。ところがなかなか子どもに恵まれなくて、イライラしたり涙を流したりする日々でした。そんな私に夫は「子どもができたらその時に考えよう」と言ってくれたので、正社員のオファーを受けることにしました。 結局、子宝には恵まれませんでしたが、おかげで自由に世界中を飛び回り、思い切り仕事をすることができました。
『週刊朝日』で15年、その名が知られるところとなった1980年、思わぬ辞令が出る。ニューヨーク特派員である。
――女性としては、初めての海外常駐特派員でした。
下村 「大統領暗殺など大きな事件が起きたときに現地にいないと困るから、夏休みも日本に戻らず現地で過ごすように」と言われました。「親や家族が死んだとき以外は日本には帰ってはいけない」と。私は本当にその仕事がやりたかったから夫を置いて単身赴任しましたが、相当な覚悟が必要だったのは確かです。
――特派員となり、改めて異文化から学ぶこともありましたか。
下村 アメリカで痛感したのは、もっと自分を押しださないといけないということ。遠慮しがちな日本人女性のままでは、仕事では0点だと思い知らされました。駐在してしばらく経ったころ、ロックフェラー家から私にだけ招待状が届いたとき、支局長が「なぜ俺のところには招待状がこないんだ」と言っていましたが、「インタレストな人にしか招待状は出さないんですよ」と言い返すまでになっていました(笑)。
――赴任されたのは、70年代に女性運動が高まり間もないころ。80年にはデンマークに飛んで、国連の女性差別撤廃条約署名式の歴史的な瞬間をレポートされていますね。
下村 週刊朝日時代にも、フランソワーズ・サガンやシモーヌ・ド・ボーボワール、グレース・ケリーなどにインタビューをしましたが、赴任してから、より一層女性問題への意識が高まりましたね。ウーマン・リブの創始者といわれるベティ・フリーダンにも何回も取材して親しくなり、彼女の別荘に招かれたこともあります。
特派員時代には、『アメリカの男たちは今』を上梓。アメリカ社会を深堀りするルポルタージュのほか、『アメリカ人のソ連観』『ソ連人のアメリカ観』の取材でも、全米、旧ソ連各地を飛び回った。1982年には女性で初めて、国際報道に貢献した記者に贈られるボーン・上田記念国際記者賞を受賞している。
女性編集長の配下の男性も、からかいを受けた
――国際派ジャーナリストとして活躍する中で、『朝日ジャーナル』編集長に抜擢されました。リーダーシップをとる中で苦労されたことは?
下村 『朝日ジャーナル』は政治部や経済部出身の男性記者が中心で、女性記者はほとんどいませんでした。女性の編集長はもちろん私が初めてだったので、男性部員は戸惑っていたと思います。後から聞いた話ですが、私が「女だから」と差別されたのと同様に、女性編集長の下で働く男性も「女王蜂に仕えるのはどんな心境だ?」なんてからかわれていたそうです。
逆風の中でのスタートですが、私はもともとお喋りが好きだから、オープンにコミュニケーションをとることから始めました。コソコソやるのは好きじゃないんですよ。政治、経済など各分野の担当デスクを一人ずつ呼んで「雑誌が休刊になるかどうかの瀬戸際だから、一緒にがんばっていこう」と腹を割って話しました。少し時間ができると何人か連れてお茶を飲みに行ったりね。
締め切りの日は作業が深夜までかかりますが、終わったら部員たちを連れて飲みに行きました。みんな議論好きだから、ああでもないこうでもないと、朝まで政治や経済談義は尽きません。次第に打ち解けて、隣の部署からは「ジャーナルって、なんでいつもあんなに賑やかにガヤガヤ喋っているんだろう」と言われるほどになりました。
思い切って編集部員に企画を任せる采配も功を奏して、誌面に活気が出てくる。カラーグラビアで読者を引き込み、ソ連崩壊、湾岸戦争など、時代の転換点を切り取る硬派な記事を読ませる。編集長のロングインタビュー「下村満子の大好奇心」は、マーガレット・サッチャー、黒柳徹子、松田聖子、緒方貞子など、ジャーナルの枠を突き破る人選で話題を呼んだ。
刺し違えて辞める覚悟を決め、全員で社長室に乗り込んだ「2.26事件」
――ところが就任1年後に『朝日ジャーナル』は休刊が決まりました。
下村 30年続いた赤字から脱却するために初の女性編集長として私が抜擢されたわけですが、 わずか1年で休刊を告げられた時はショックでした。編集部のみんなも「せっかく頑張ってきたのに、実は休刊が前提だったのか。俺たちをだましたのか」と怒り狂って「社長室に乗りこむ」と言うので、全員引き連れて社長室に乗り込みました。「私たち全員辞めます、社長も辞めてください」と、2.26事件のように刺し違える覚悟で社長に啖呵を切りました。
そこで一度は休刊が白紙撤回されたのですが、その後の取締役会でひっくり返され、休刊が確定となりました。男性編集長の時に休刊にすると男性の名に傷がつきますが、女性なら「やっぱり女はダメだ」で済むからだろう、なんて噂も耳にしました。バカバカしくなって会社を辞めようと思って、四柱推命鑑定を行っている運命学者の知人に相談したんですよ。そうしたら、「何を言ってるの!」と一喝されました。「何ごとも、立ち上げる時は勢いがあってうまくいく。でも、終わるときが一番難しい。これをうまくやり切ったら、今後の人生でもっと大きな仕事ができる」と言われて。「わかった、それじゃあ、やってやりましょう」と。
――「有終の美」という言葉もありますが、仕事をうまくたたむのは難しそうです。
下村 会社に戻ってすぐに編集部のみんなを集めて、「伝統ある『朝日ジャーナル』を野垂れ死にさせるわけにはいかない。歴史に残るエンディングに持っていこう。最高に素晴らしい最終号を作れば、我々も誇りを持って次のステップに踏み出せるはず!」と話しました。そうしたらみんなの心にも火がついて「最後だから赤字が出たって怖くない!大江健三郎さんとか、つながりのある著名な方たちに原稿を書いてもらおう!」と盛り上がりました。結局、92年5月29日発売の最終号は、通常の2倍くらいのページ数になりました。
全国の読者に呼びかけ、発売日には、当時の有楽町マリオン(有楽町センタービル)の広場で「読者への感謝とさよならフェスティバル」を開催しました。そうしたら本当に全国から『朝日ジャーナル』を手にした読者が集まってくれてね。朝まで愛読者の皆さんも交えて、飲んで歌って踊り明かしました。
それまで部のみんなで積み立てをして年1回旅行していたのですが、「最終号が出た後に、みんなでハワイに行こう」と決めていました。だから新雑誌立ち上げみたいなすごい盛り上がりで、周りの人からは「つぶれる雑誌の編集部がどうしてあんなに盛り上がってるんだ」と不審がられました(笑)。
――本当に打ち上げ旅行でハワイに行かれたんですか?
下村 もちろんですよ。最終号は見事に即日完売で増刷になり、「こんなに売れるなら休刊する必要はないのでは?」と言われるほどでした。でも私たちはフェスティバルでワーッと盛り上がった次の日には、ハワイ行きの飛行機に乗っていました。みんなで盛り上がって、すごく楽しかったわね。私にとって『朝日ジャーナル』の休刊は、リーダーシップの大きなステージを乗り越えた、思い出に残るできごとです。
しもむら・みつこ 1938年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。ニューヨーク大学大学院修士課程修了。1965年に朝日新聞社入社後、週刊朝日記者、朝日新聞ニューヨーク特派員、朝日ジャーナル編集長、朝日新聞編集委員を歴任。日米関係、国際問題、経営、政治、教育、医療、女性問題、ジャーナリズム論、生き方論など、幅広い分野の執筆を手掛ける。
海外では、中近東、アメリカ、ヨーロッパ、中国、旧ソ連などで取材、政財界のトップインタビュー、世界各国のルポルタージュなどに取り組む。1982年、ボーン・上田記念国際記者賞を女性で初めて受賞。1994年フリーのジャーナリストに。同時に両親の事業を引き継ぎ、一般財団法人東京顕微鏡院理事長に就任、続いて医療法人社団「こころとからだの元氣プラザ」を設立する。
『アメリカ人のソ連観』『ソ連人のアメリカ観』『編集長・下村満子の大好奇心』など著書多数。ソニー創業者である盛田昭夫との共著『MADE IN JAPAN』は世界的ベストセラーとなった。
(動画/ベイビー・プラネット、写真/竹井俊晴、文/加納美紀、インタビュー/野村浩子)