「社会を変革する」、24歳で覚悟を決めた

目黒依子さん(85)

上智大学名誉教授・ジェンダー社会学者

リーダーシップ111(以下LS111)創設者のひとり、上智大学名誉教授の目黒依子さんは、ジェンダー社会学研究の第一人者。日本の大学では初となる体系的な「女性学」の講座を立ち上げた。国連と日本を結んだ国際派の研究者としても知られ、国連女性の地位委員会日本代表など、数々の国際的な要職を務めてきた。その起点は、高校時代、日本代表として米国に渡ったことにある。そこから始まった、ジェンダー平等の旗振り役となるまでの道のりとは――。

女性リーダーをつなぎ、男性中心の意思決定の仕組みを変える

――LS111の立ち上げに参加されたきっかけは?

目黒依子さん(以下、目黒) あるパーティで、私の友人に「ちょっとこっちに来て、会わせたい人がいるから」と手を引かれて、当時参議院議員だった堂本暁子さん(のち千葉県知事)にお会いしたんです。「日本に有能な女性がたくさんいるのに、リーダーシップはどこも男性中心。女性リーダーの団体をつくりたいから入ってね」と言われました。

 たくさんいる女性リーダーたちを点から線へ、さらに面に広げていくことで、男性中心の意思決定の仕組みを変えていく、女性たちの力を可視化するものだとイメージしました。いろいろなセクターで力を発揮している女性リーダーを鼓舞する足場のようなものだな、と。ニューヨークの女性リーダーの団体をモデルにした考えでしたが、私自身は国際的な動きを他のメンバーに伝える役割ができれば、と思いました。

 堂本さんを引き合わせてくれたのは、ニューヨークに本部をおく「ジャパン・ソサエティ」で働いていた川島瑠璃さんです。アメリカの大学の先輩でもあり、何十年来の大親友です。日米の懸け橋となってきた川島さんに、お世話になった日本人は大勢います。朝日新聞のニューヨーク特派員となった下村満子さんもそのひとり。堂本さんと下村さんで、何か会を立ち上げようということになったと聞いています。

――LS111の海外訪問ツアーにも参加されています。印象に残っていることは?

目黒 会創設の翌年、1995年に第4回世界女性会議が北京で開かれました。国際的にジェンダー平等をめざす動きが盛り上がっていたときで、日本からも多くのNGOが参加しました。私は、途上国調査と重なってしまい参加できませんでしたが、LS111も北京会議に参加して、「女性団体として海外を訪問することは有意義だ」という共通認識ができました。

 私は米国とカナダの海外ツアーに参加しました。ニューヨーク在住だった川島さんが、現地の女性団体訪問をはじめ、議員や研究者との面会などをアレンジしてくれたので、とても中身の濃い視察になりました。個人的に印象に残っているのは、ワシントンD.C.でお目にかかった経済学者です。著名な方で素晴らしい論文を書きながら、オフィスを構えて政府に政策提言もしていました。女性の地位を上げる、ジェンダー平等を実現するための活動を続けているのです。研究者が研究成果をベースに、政治家や多くの人を説得する、これは現在も信頼されている重要な手法です。当時日本の研究者にはあまりない発想で、非常に刺激を受けました。

1997年、ニューヨーク、ワシントンD.C.視察旅行。
左は国連を背に。右は、厚生大臣となった大学時代の同窓生(中央、緑のスーツ)を訪問

公開シンポジウム「It's now! 女性が社会を動かす時」(2011年)

――LS111の代表就任は2011年。東日本大震災の年でした。

目黒 大学を定年退職し、国連女性の地位委員会日本代表を13年務め終えた直後だったので、引き受けることができました。私が代表を務めた1年はLS111でグローバル視点でジェンダーを議論する要望が強く、秋のシンポジウムのタイトルを「It’s Now! 女性が社会を動かす時」として、動きの鈍い日本に変化を促そうとアピールしました。被災地で活躍するNGOの代表や社会起業家の女性らを招いて議論をしました。

「経済的自立を」。父の教えが根底にある

1956年、高知県の高校2年生のとき、ニューヨークの新聞社が主宰する「世界ユース・フォーラム」に日本代表として参加する。第二次世界大戦で敗戦国となった日本の国連加盟がようやく認められた年である。フォーラム参加がきっかけとなり、米国の大学に進学。帰国後、出版社に入り、編集者となった。

――子どものころから自立を意識していたと聞きましたが、親御さんの影響ですか?

目黒 10歳のとき母が亡くなったので、父の教えや躾が私の中に根を張っています。中学生になってからは、父に「経済的に自立すれば、自分の生き方を自分で選べる、手に職をつけなさい」と教えられました。「男に頼っていると、いい結婚相手に出会えればいいけど、そうでないと一生不幸だ」と。周りで苦労をしている女性たちを見てきて、娘には苦労をさせたくないと思ったのでしょう。

 高2のとき、ニューヨークのヘラルド・トリビューン紙のユース・フォーラムに応募しました。父がふと立ち寄った教育委員会で募集の張り紙を見つけて「受けてはどうか」と言ったのです。世界の高校生が各国1名参加できるものです。文部省(当時)が選抜していて、たまたまその年は、四国・中国・九州ブロックから一人となっていました。大分大学で選抜試験があるとのことで、ひとりで出かけました。空襲で焼け出された我が家は貧しくて、一人分の交通費しか出せなかったのです。高知から高松まで汽車で行き、高松から別府まで船で行きます。船に乗り遅れそうになって、駅員さんに「まだ間に合いますか」と聞いて、走って走って。ようやく間に合い、別府からはまた汽車に乗り、大学に着いたら大人がたくさんいてびっくり。みな先生や親同伴だったのです。

 英語は同級生のなかで少しできるくらいでしたけど、中学も高校も津田塾出身の先生で発音がよかった。友達に誘われて修道女の先生に、数ヵ月英会話を習ったことがある程度でした。なぜか日本代表に選ばれて、高2の1月から3月までニューヨーク周辺に滞在し、高校生ら家族と生活をともにしました。

 最後のフォーラム会場は、ニューヨークのアストリアホテルでした。いろいろな国の人たちと意見交換をしたり、国連を見学したり、ベルリンに行くツアーにも参加しました。自然と会話ができるようになって英語力が格段に上がりました。戦争している国同士の参加者がギクシャクする場面もあり、相互理解の必要性を痛感しました。それが私にとって、最大の学びでした。

ある男性教授のひと言で「社会を変えよう」と決意

――アメリカの大学に進んだきっかけは?

目黒 ユース・フォーラムで15分のディスカッションをテレビで放映するプログラムがあり、何にでも積極的に挑戦しようと思っていたので、手を挙げて出場したんです。それを見ていたニューヨーク郊外にある短大の学長からある日呼ばれて、「奨学金をあげるから、うちの大学に来ませんか」と。その場で「行きます」と答えました。

――お父様にも相談せず、その場で即答ですか。

目黒 だって父からずっと言われてたんです、自立しないといけないって。だからなんの躊躇もなく。アメリカの大学で学んだことを、日本に持ち帰ってきっと何かできるに違いないと思いました。日本に帰って父に報告したら、びっくりしていましたけど。秋入学なので1年半後にアメリカの大学に入り、さらに3年生から今度もまた奨学金をもらえる別の大学に転入したところ、川島瑠璃さんが数年前に在籍していたことを知りました。いろいろな幸運が重なって今に至っていますが、ターニングポイントでは結果は別として常に自分の意志で進む道を決めてきた、と自負しています。

アメリカ留学時代の保証人家族とともに

――帰国して、雑誌社で編集者になられたとき、また転機が訪れたとか。

目黒 ある日、先輩に頼まれてフランス文学の研究者のところに原稿を取りに行きました。著名な東大教授です。「先輩のかわりに伺いました」と言ったところ、「男の編集者はいないのか」と言われたんです。さらにその場で「失礼ですが、目を通させていただきます」と断って、原稿の枚数を確認したところ「男の編集者は、目の前で原稿を読むなんて失礼なことはしないよ。しかしあんたは断ったからいいけど」と渋い顔をされました。

 帰り道、「日本ってこんな国なのか」って思いました、石を蹴飛ばしながらね。あの東大教授ひとりではなく、社会全体に女を一人前扱いしない考えがしみこんでいる。「ああ、どうしよう。アメリカに戻ったほうがいいかな」と考えました。ひとしきり考えを巡らせた後、「社会を変えよう」と腹をくくりました。日本人として生きるのなら、やはりこの日本を変えるしかない、私が住みたいと思う社会にしたいという一大決心でした。

 そのために、私は何をすべきか。社会を変えるには多くの人の信頼を得る必要があります。多くの人が耳を貸してくれるような人間になるには、勉強をすること。やっぱり私に一番合っているのは社会学だ、と考えました。アメリカで社会学を勉強してきたから、日本社会もアメリカ社会も客観的に見ることができる、だから、社会学を究めて社会的信頼という武器を身につけようと思ったのです。

 ニューヨークでお世話になった共同通信の方のところに相談に行ったところ、「ううむ、まあ大変だけどやりましょう」と。それで東大の社会学の先生を紹介してもらいました。もちろん大学院の試験は受けました。専攻は、農村社会学にしました。日本の社会は、農業から工業中心に動いている、社会の変動をみていきたいけど、その根源には家父長制がある、そこをじっくり知りたいから農村社会学を専攻したいと思ったんです。東大でその分野では日本トップの先生につきました。

日本初の「ジェンダー社会学」で若者の意識を変えていく

米国の大学では、1970年代に「女性学」が広まりつつあった。それまでの近代科学は、男性中心の視点によるものが主流だった。60年代からの女性運動の高まりもあり、これに対して異を唱える動きが高まり、女性の視点をもって人間社会を分析しようという「女性学」が立ち上がったのである。米国の大学で最先端の動きに触れ、帰国後に日本で初めて体系的な「女性学」の講座を立ち上げた。

――上智大学で、日本初の「女性学」の講座を立ち上げました。

目黒 大学院を卒業したあと上智大学で講師の職を得たものの、学生運動が盛んなころで、ひとまず非常勤講師として3年教えました。いよいよ翌年から常勤雇用になるという直前に、家族の国際比較調査をしていたアメリカの大学教授から調査に参加しないか、奨学金も出すという誘いをうけ、休職することになりました。上智からは3年の期限付き、3年で博士号をとらなければ、席はありませんという約束で。アメリカ人でも博士号を3年でとるのは難しいところ、調査の助手をしながら何とか論文を完成させて学位をとりました。論文のテーマは『現代家族の社会的ネットワーク:パス解析の応用』です。

 ちょうどそのころ、女性学がアメリカの大学で広がっていました。日本に帰ったら、女性の見る人間社会の研究を深めたいと思っていました。上智大学の社会学科長に手紙でそう綴ったところ、ぜひそれを教えてください、学長命ですとのこと。そこで帰国後に日本の大学で公式の授業としては初となる「女性社会学」を始めました。

 それから間もなく、「ジェンダー」という言葉が生まれて、私もジェンダー社会学のほうに進んでいきます。大学の講義も、ジェンダーの社会学という名前に変えました。女性学は最初のステップ、女性だけにフォーカスするのではなく、今まで問題視されていなかった男女の関係性を考えるのがジェンダー論です。

――日本初の学問分野ですが、学生の反応はいかがでしたか?

目黒 社会学科の女子学生は元気がよくて、ゼミにも10人ほどが参加していました。最初は男子学生には敬遠されていましたが、数年経つと男子もたくさん参加するようになりました。「男性は女性を虐げているように言われるけど、男子も辛い」という声も聞いたので「一方が有利になるのはフェアじゃないから、そういう社会を変える必要がある」という話をしましたね。

 大学で教える道を選んだのは、学生から意識を変えていけば、いつか社会が変わる可能性があると考えたからです。講義だけでなく、200人ほどの参加者でグループを作ってワークショップをしたこともあります。自分の意見を話し、仲間の考えも聞き、学生もシニアの教授も対等に話して互いの意見を尊重します。そうすることで学習意欲も高まるし、しっかり物事を考える大人に育っていったと思います。

国連でリーダーとなる、各国の合意形成で手腕を発揮

1994年、国連総会第三委員会の日本政府代表代理に就く。以来、現在に至るまで30年近く、国連のジェンダー関連の要職で活躍してきた。とりわけリーダーシップが問われたのは、98年から13年務めた「国連女性の地位委員会日本代表」のポストだった。国連女性の地位委員会とは、各国の政府代表が世界中のジェンダー平等の課題について討議するもの。各国の思惑が異なるなか、合意形成をして結論を導き出すのは容易ではなかった。

――国連の仕事をするようになったきっかけは?

目黒 1994年に、国連総会で人権人道問題を扱う第三委員会の日本政府代表代理を任せたいと外務省から連絡がありました。「えっ、私が?」と思いました。私を推薦したのは国連NGO国内婦人委員会というところ。1957年に市川房枝さんの肝入りで作られた委員会で、民間の女性代表を国連総会に送るものです。この仕組みは今でも生きていて、市民と政府がいろいろな情報を共有できる、いいケースだとして海外からも評価されています。

 任期の2年間は大学の授業は代理を立てるなど、かなりの犠牲を払いましたが、お金を払っても得られないような貴重な経験をしました。国同士で意見が合わないときに、礼儀として相手を称えてから意見を述べるとか、普通の英語では理解できない国連英語の独特の言い回しなどもその中で学びました。

国連会議場で、休憩時間に

――そこで、国連での意見のとりまとめを学ばれたのですね。

目黒 もっと生々しい経験をしたのは、国連女性の地位委員会の日本代表。1998年から2010年まで13年間、会期中は休み時間も寝る間も惜しんで仕事をすることも多かったです。ジェンダーの問題を中心に取り扱う委員会で、メンバー国以外にも希望する国が参加し、意見を出し合って最終合意した内容を文書にまとめます。

 強制力はありませんが、途上国などでは「国連の文書にこう記載されているから、わが国でもこうすべきだ」と主張することができるため、作成した文書は重要な位置づけになっています。ですから途上国の女性からは「絶対にこの文書をまとめて発表してほしい。国連の合意文書があると、どんなに心強いか」と泣いて訴えられたこともあります。

 私としてやりがいがあったのは、2002年のアフガニスタン解放後に新憲法をつくるときのこと。日本がアフガンの復興を支援していたことから、「是非アフガンに行って話をしてほしい」と外務省に依頼され、現地に飛びました。「第二次世界大戦から復興を遂げた日本では、女性の力が非常に重要だった。女性の権利を憲法に盛り込んだことが、経済復興の大きな力になった」と、憲法委員会の長老たちに語りかけました。東京に戻って、翌日ニューヨークへ。女性の地位委員会に出席して、憲法に女性の権利を盛り込むことを、強制力のある文書にまとめるべきだと多数の国が合意。現地から帰ったばかりの私も、バンバン意見を言いました。アフガンの女性たちがどんなに困難な状況におかれているか、目に浮かんできたからです。

W20共同代表で「日本に何ができるの?」を跳ね返した

2018年、G20首脳に対してジェンダー政策に関する提言書を出す「Women20(W20)」の共同代表に就任。19年に日本が議長国となるに伴い、W20リーダーとして、メンバー国や国内の政財界、市民団体などの意見をとりまとめて、安倍晋三総理(当時)に手渡した。男女の賃金格差の解消やケア労働の偏りの是正など、一歩踏み込んだ提言がG20首脳宣言に盛り込まれた。

W20のコミュニケを、安倍晋三首相(当時)に手渡す
W20運営委員会共同代表目黒さん(右)と吉田晴乃さん(左)。
出典/内閣府男女共同参画局ホームページ『共同参加画』令和元年6月号

――W20では20カ国の合意形成に向けて、どう動かれたのでしょうか。

目黒 限られた時間の中で20カ国の意見を取りまとめるにあたり、事前にルールを決めました。というのも、過去には、オンライン会議終了後に違う意見が出てひっくり返されるなどして、まとまらないことがあったからです。でも、私がリーダーを務めた年は新しい言葉やイシューを提案する場合は期限内に、同じ国から異なる意見を出すのはNG、意見は必ず国内で同意したものを提出することを厳守するよう取り決めました。

 日本はジェンダーギャップ・ランキングで低迷していて、「あの日本が議長で、どこまでこれまでのレベルを維持できるのか」と見る国もありました。私はそれを察知したから、絶対に前年の提案レベル以上のものにしようと覚悟を決めて、どんな犠牲も払うと腹をくくっていました。

 

 その意味では、実は私の敵は国内にありました。ジェンダーには疎いけれど力のある方々が、サポートしつつも口出しをしてくるので…(苦笑)。そこで、委員以外からの意見は受け付けないと決めました。チームのメンバーが横やりを入れられ困っていたので「私が守ってあげる、ケンカは私がする」と楯になりました。結果的には、W20の提言は納得のいくレベルに仕上がったと思っています。

地方が変わることで、日本は変わり得る

「行動する研究者」――、研究室に留まることなく、世界各国を巡ってきた。その足は、日本の地方にも延びる。東日本大震災の被災地、また兵庫県豊岡市など自治体にも足を運び、ジェンダー・ギャップの実態を調査分析する。

兵庫県豊岡市のジェンダーギャップ解消戦略会議の委員からの提案。前列中央が目黒さん

――都会と地方、ジェンダー・ギャップの差をどう感じていますか。

目黒 東日本大震災の被災地では、国際的な支援を手掛けてきて、ジェンダー平等が当たり前になっている人たちなど、外部の人が支援に入っていきました。外部の人が地元の人を巻き込んで復興を後押しするなかで、ジェンダー・バイアスが解消されていく可能性が出てきました。

 私がかかわった豊岡市では「ジェンダー・ギャップを解消する」という元気の出る言葉をかかげて自治体が取り組んでいます。その戦略会議には、男女、ライフスタイル、年代も多様な市民が加わり、市民が責任もって、オーナーシップを意識しつつ取り組んでいます。地方のあっちが変わり、こっちが変わり、それがつながっていって日本全体が変わるという戦略をとるほうが、ジェンダー平等を実現する可能性が高いと思い始めています。逆にいうと、政府に任せていてはスピードが遅い。地方が変わることで日本は変わり得る、ということです。

――「この1、2年、やっと岩盤にヒビが入った」と発言されていましたね。

目黒 岩盤が崩れ始めたのは、外圧によるものですよ。日本で関心がもたれるのは、経済分野。日本の経済界ではここ10年くらい、ジェンダー平等が当たり前になってきて、投資家に選ばれるためには女性活躍からジェンダー主流化に移行することが必須だという認識が定着してきました。その危機感から、まずは大手企業をはじめとする産業界で、岩盤にヒビが入ってきたと感じています。

――女性リーダーを増やす動きが活発になっていますが、リーダー就任をためらう女性もいます。次世代を担う女性にメッセージをいただけますか。

目黒 67年前、私がアメリカで経験した世界ユース・フォーラムのテーマは「The World We Want」(私たちが望む世界)でした。いま、みなさんが思い描く「The World We Want」とは、どんな世界でしょうか。一人ひとりが考えて実現に向けて一歩を踏み出してほしいと思います。

 これからリーダーになる皆さんは、関心があるなら、迷っても失敗しても、とにかくやってみることをお勧めします。もし失敗したと思っても、悔やんでいたら時間と労力の無駄で損でしょう? 私もたくさん失敗してきたし、迷いや不安を感じたこともいっぱいあります。でも、うまくいかなかったら道具や戦法を変えて、またチャレンジすればいい。私も、そうして諦めと怒りと希望をミックスしながらやってきた。何とかなる、と思って。そうだ、私は、何とかなる人生だったんだ(笑)。

ミニ Q&A

Q キャンパスを歩く姿をみても、驚くほど足が速い。心身の健康の秘訣は?

A 朝晩、15分くらいずつ、ストレッチ体操。一人で外出するときは駅まで歩き、階段もつかいます。

Q 上智大のファッションリーダーという声も。今日のお召しものは?

A 昔買ったミッソーニよ(ふふ)。

Q ふっと一息つく時間は?

A 私は「吞べえ」なんです。毎日暗くなると、ウイスキーかワイン。お酒を飲まなければ、もっといい研究が出来ていたかな、と思うこともありますね(笑)。

めぐろ・よりこ 1938年、高知生まれ。米国Briarcliff College、Western College for Women卒業。東京大学社会学研究科修士課程修了後、1968年上智大学文学部社会学科非常勤講師に。71年、同専任講師となると同時に米国Case Western Reserve University大学院に留学。社会学専攻博士課程修了(社会学博士)。74年に上智大学に戻り、助教授、教授を経て、2009年より名誉教授。日本家族社会学会会長のほか、国連総会日本政府代表代理、国連女性の地位委員会日本代表、W20日本運営委員会2019共同代表などを務める。2005年男女共同参画社会づくり功労者内閣総理大臣表彰。2009年JICA第6回理事長表彰。
2013年 Western College for Women 卒業生社会貢献表彰。2017年外務大臣表彰。2020年 令和2年秋の叙勲(中綬章)。現在外務省の「女性・平和・安全保障に関する行動計画」評価委員会委員長(2017年~)

(動画/ベイビー・プラネット、写真/竹井俊晴、文/加納美紀、インタビュー/野村浩子)