経営は「クリエイティブ」

だから社長になろうと思った

大河原愛子さん(82)

WF-NET会長、デルソーレ元会長

リーダーシップ111(以下、LS111)設立者のひとり、大河原愛子さんは女性起業家の草分けとして知られる。24歳で冷凍ピザを扱う会社の社長となり、日本に「ピザ文化」を作った立役者でもある。米国生まれでいまも米国籍。さらに女性の経営者とあって、マイノリティの苦労を味わった。2023年春、57年に及ぶ経営者人生に一区切りをつけたが、今も海外視察や外国人リーダーとの交流が続く。

来日したヨルダン王女の昼食会に参加したら「是非みなでいらっしゃい」と

――まず、リーダーシップ111を立ち上げた経緯を教えて下さい。

大河原愛子さん(以下、大河原) ジャーナリストの下村満子さんとの出会いがきっかけでした。当時の女性たちは各業界で頑張っているものの、ミドルマネジメントクラスが多かったんです。そこで、みんなを集めて相談したり勉強したりする機会を作ればトップを目指せるのではないかと思ったんですね。実際、立ち上げから30年間でメンバーの中から県知事や外務大臣、大使、大企業の社長も出ました。どんなに能力があってもひとりでは限界があるので、皆が集まることで大きなパワーになったのだと実感しています。

――ジェーシー・フーズ(現デルソーレ)をジャスダックに上場させた翌年に、LS111が設立されています。ご自身もLS111から力を得ましたか?

大河原 食品業界は体質が古かったので、工場や事務所には女性がいても部長以上はほぼ男性でした。私が社長になったときも、男性部下がついてきてくれなかったり、銀行から融資が受けられなかったり。業界の会合にも参加できず、情報交換もできない状況でした。何をやっても女性ではダメだといわれた時代でしたが、LS111に参加することで、素晴らしい女性たちが同じ立場にあると気づけて嬉しかった。苦労しているのは自分だけではない、と勇気をもらいました。

――1995年に国連の北京会議に参加されています。どんな経験をされましたか。

大河原 LS111の中の国際委員会の最初の活動として参加しました。手作業でポスターを切ったり貼ったりと、何から何まで自分たちで準備したことも楽しい思い出です。私たちは日本の働く女性の現状についてプレゼンしました。アフリカやアジアなど各国の女性たちが聞きにきてくれ、私たちはただ働きにくいということではなくて、生きること自体が大変なんだというのです。我々も頑張っているけど、もっともっと大変な人がいる、それがすごく印象的でした。

 大統領夫人(当時)のヒラリー・クリントンさんのスピーチにも、感激しました。「Women’s Rights are Human Rights」とお話された。その言葉を今でも時々思い出して「女性の権利はどこまで来ているかな」と考えたりします。

――北京の女性リーダーたちとの交流でも気づきはありましたか?

大河原 はい。当時、中国では大企業の社長にも女性が多かった。何千人もの会社のトップに「夕食はどうなさっているんですか?」なんてベーシックな質問をしたら、「先に帰った方が作るのよ。旦那が先だったら旦那が、私が先に帰ったら私が作るわ」という答えが返ってきました。いろいろなことが起きる国ですが、当時から女性の働き方に関しては平等感がありました。

――2000年にヨルダンを訪問されていますが、どうやって実現したのでしょう。

大河原 ヨルダンのラーニア王女(当時)が来日された時、外務省での昼食会に私をはじめ女性リーダーが何人か招待されたんです。そこでLS111の話をしたところ「ぜひ、ヨルダンにいらして」と言ってくださいました。社交辞令だと思っていたら、数日後にヨルダン政府から電話があって「いつ頃、来ていただけますか?」と言うので、ビックリしました(笑)。急いでLS111のメンバーに声をかけ、10人ほどでヨルダンを訪問しました。

 あちらはアラーの国、イスラム教の文化圏で馴染みのないこともたくさんありました。ラーニア王女には宮殿でお会いしましたが、一方で、家がなく砂漠でテント暮らしをする人も多く、貧富の差に驚きました。ラーニア王女は貧しい人たち、とくに女性の窮状を危惧して、女性支援に心を尽くしていました。女性たちが作ったものを販売したり、ファンドレイジングをしたり。その様子も視察しました。

 さらに川を渡ってイスラエルにも行き、文化を体験しただけでなく女性政治家との交流も果たしました。当時の大統領はゴルダ・メイアという女性でしたし、活躍している女性が多かったですね。

 私はアメリカ生まれでアメリカ国籍。日本は素晴らしいところですけど、日本の友達も海外の経験を出来るだけしたほうがいいと思い、そうした機会をたくさん作らせてもらったんです。

ヨルダン王女を訪問(2000年)

1941年、ハワイで真珠湾攻撃がなされた3週間前に、ハワイのホノルルで日系二世の両親のもと生まれる。4人兄弟の長女で、弟が3人。日本のインターナショナルスクールで1年学んだのち、飛び級で16歳のとき米国のノースウエスタン大学に進む。2年後に、スイスのジュネーブ大学に転じ、弁護士の資格を得る。卒業後、日本で会社経営をするようになった両親の住む日本に戻る。ジェーシー・フーズ(現デルソーレ)の社長となったのは、24歳のとき。父親が経営する会社のひとつ、冷凍ピザを扱う同社の社長を任せてほしいと頼み込んだ。

ピザを家族で囲む「ライフスタイル」を提案したかった

――米国の大学では差別を体験したと聞きました。

大河原 アメリカの大学に進み、ソロリティ(女子学生のクラブ組織)に入ろうとしたところ、最終選考までは残るのに、いつも最後に落とされてしまいます。まだ10代でしたので、泣いて泣いて…どうして?と思って調べたところ「白人しか認めない」というルールがあったのです。

 別の組織に入ろうと思って生徒会の副会長に立候補しました。全生徒の投票によって決まるので公平感があり、そちらで当選したことで胸のつかえはとれました。その時、タッグを組んで選挙活動をして会長職を勝ち取ったディック・ゲッパードは、のちに有能な政治家となり大統領候補になった人です。当選はしたものの(人種差別という)ルールを変えるのは無理、時間の無駄だと諦めてスイスの大学に行ったのです。

(左)1961年、スイスのジュネーブ大学で。(右)留学中、ヨーロッパを旅行。

――日本に帰り、24歳で経営者としてのキャリアをスタートしたのはなぜですか。

大河原 1964年に父が仕事をしている日本に戻りました。戦争が終わってから20年程しか経っていないころで、みな頑張って経済を伸ばしていこうという、すごい活気のある時代でした。その一部になりたかったんです。そこに入りたくてね。一方、日本では女性の地位が低いことに衝撃を受けました。学校卒業後はお見合いをして、23、4歳くらいで結婚するのが一般的だったのです。一応私も、花嫁修業をいたしました。お花とお料理、あまり役に立っていませんが(笑)。

 帰国後は通訳として働いていましたが、もっとクリエイティブな仕事をしたいと思って、父が経営する冷凍ピザの会社を任せてほしいと頼み込みました。父は結婚して家庭に入ることを望んでいたのでなかなか首を縦に振ってくれませんでしたが、「1年で黒字化できなかったら辞める」という条件で、何とか承諾を得ました。

 父はさまざまな事業を興していて、食卓ではいつもビジネスのエキサイティングな出来事を話していました。幼いころからそうした会話を聞きながら育ったおかげで、経営はクリエイティブだと思うようになったのです。

――日本でピザ文化が根付くという確信があったのでしょうか。未来をつくる自信のようなものがおありだったのか。

大河原 アメリカやヨーロッパの大学で、ピザを食べたことがあって、こんなに素晴らしいものはないと思ったんです。ソースとチーズ、そのバランスとトッピング、ひとつのお食事になるんですからね。日本にピザという食品を提供するのではなくて、ひとつのライフスタイルを提供したかったんです。日本は戦後20数年しか経っていなくて、まだ暗かった。ピザを囲んでみんなでワイワイ食べるのって楽しいじゃないですか。それを実現するのが夢でした。

 60年代の日本では、チーズの消費量はひとりあたり年間わずか50グラム。小さな7インチサイズのサラミが載っているピザが210円でした。大卒の初任給が1万2000円くらいの時代ですから、高くてなかなか売れなかった。経済が良くなり、習慣が変われば売れると思っていましたが、長い長い時間がかかりました。

月曜日の朝出社すると、社員が何人も辞めていた

――女性経営者が少ない時代の創業で、ご苦労も多かったのでは?

大河原 当時私は、「若い、女性、ハワイ生まれの外国籍、かつ未経験」。なかなか信用してもらえず、銀行の融資を受けるのも大変で、部下もついてきてくれない。男性の部下はどんどん辞めていき、月曜日に出社すると社員が減っています。営業マンが業務用トラックを道端に停めて消えてしまった、なんてこともありました。

 そのころ高度成長期で、人の採用もままならない。そこで人が考えないことを考えなければいけないと思いました。当時、東京の目黒に工場があったのですが、人手不足でパートさんすら集まりません。そこで、福岡の畑の真ん中にある農業用倉庫を借りて工場を作ったんです。東京から1200㌔も離れた九州に工場を建てるなんてなんぞや、と社員には猛反対されました。ところが蓋をあけると、農家の奥様方が喜んで働きにきてくれました。

 本社では、商社やメーカーなど大手企業に足を運んで、定年(当時主流は55歳)退職後でまだ働き盛りの人材を確保しました。

――ピザ文化の定着に向けて、風向きが変わったきっかけは?

大河原 「ロイヤルホスト」の社長・江頭匡一さんとの出会いでした。「九州で米国式のファミリーレストランを始める」と聞き、すぐ福岡に飛びました。ピザと小さなピザオーブンをもって。先方の本社キッチンでピザを焼いて差し上げたところ、江頭さんが「これはいける」と。1971年にオープンしたロイヤルホスト一号店のメニューに加えてもらったところ、大ヒットしたんです。これを見て、他社も次々とピザをメニューに加えていきました。

 ファミリーレストランができるという情報は、あるパーティで商社の方から教えていただきました。日本ペプシコーラを経営していた父を通して江頭さんと連絡をとってお目にかかることができました。日頃からアンテナを立てて、ヒューマンネットワークを築いておくことは本当に大切ですね。

1970年代、オフィスにて。

4億円を投資して工場建設。赤字が膨らみ倒産の危機に

――80年代には宅配ピザも登場、弟さんが始めたドミノピザにも納入するようになり、さらに成長を遂げます。とはいえ、軌道に乗るまで大変な時期もあったと聞きます。

大河原 皆の反対を押し切って69年に成田工場を作ったものの、半年はうまく回らず、赤字が膨らみました。会計士からは「このままでは会社が潰れるぞ」とずいぶん言われました。

 千葉に工場をつくったのは、ひとつは福岡の工場から東京まで列車便で運ぶのが大変だったこと。もうひとつは冷凍から冷蔵に出ていきたいと考えたからです。業務用だけでなく市販のピザも出さないと本格参入ではない、台所にも入っていきたいと考えたとき、冷蔵を手掛けるべきだと考えたのです。

 昔はスーパーの冷凍コーナーは小さくて、大手企業と競争して我が社の冷凍ピザを置いてもらえる余地はありませんでした。では、どうしたらいいのか。スーパーをぐるぐる回りながら考えました。冷凍に比べると、豆腐やハムソーセージが並んでいる冷蔵のスペースのほうが広い。じゃあ、ハムメーカーさんと組んだほうが早い。そう考えて、伊藤ハムさんに相談したのです。伊藤ハムさんのハムを載せたピザを我が社がOEMでつくる、それをスーパーに同じトラックで運べばプラスの経費にならないのでどうですか、と提案しました。アメリカの食品展示会で知り合った伊藤ハムの部長さんを通して、決定権のある常務に引き合わせてもらい、話を進めました。

 ただし伊藤ハムさんと契約を交わす前にあたり、工場がなくては売り込めない。福岡では遠すぎる、そこで4億円くらいかけて千葉に工場を作って、それで売り込みにいったのです。周りは「無理ですよ、潰れるよ、何考えてるの」と言いました。でも、リスクテイキングをしなければ、我々の会社を伸ばすことはできないのです。ただめちゃくちゃな難しいリスクではなく、ある程度計算したうえでのリスクテイキングですね。伊藤ハムさんと組んだ結果、ヒット商品となり、ハムメーカーさんは各社追随してきました。

 先ほども言ったとおり、経営者はクリエイティブでなければいけない。何日も何日も考えて、出口がないのか、何かできないかをひとりで考えて、結論を出す必要があるのです。

――経営者としてクリエイティブな発想ができるようになったのは、いつ頃からですか。

大河原 必要に迫られてクリエイティブになったんです。いろんな課題にぶつかって何とかしなければいけない。みなが普通に考えていることでは成功できない。少しでも違うこと、クリエイティブなことを考えなければいけないんです。

社長に就いて27年目となる1993年、ジェーシー・フーズをジャスダック(現グロース市場)に上場させた。女性としては二人目、外国籍の女性としては初の上場だった。父は、日本ペプシコーラの社長、夫は日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)の社長、弟はドミノピザの社長と、食品業界の経営者ファミリーである。夫のKFCの傘下には、ドミノピザのライバルであるピザハットがあるという、ピザ一家でもあった。

(左)1993年上場したころ、オフィスにて。 (右)1997年、長崎で行われた船の命名式。香港の会社が保有しオランダに貸し出す船の命名を頼まれ「NETHERLANDS」と名付けた。船の命名は、著名な女性に依頼するのが世界的なルールだという

社長は孤独。夫にも企業秘密は話せない

――IPO(上場)を目指したのはどうしてですか?

大河原 いくら仕事が軌道に乗っても、女性社長では信用が得られない場面が多く、優秀な社員は集まらないし、サプライヤーとの取引や銀行から融資を引き出すときも苦労しました。ですから上場することで信用を勝ち取りたかったんです。

――女性のIPOは東京ソワールの児島絹子さんに続いて二人目でしたが、女性ゆえの難しさもありましたか?

大河原 「女性が上場すると知ったら妨害する人もいるかもしれないから、黙っていたほうがいい」とアドバイスを受けました。実際、ある会合で「いずれは上場したいと思っている」とチラッと話しただけでも、男性経営者たちからは「何を考えているんだ」「できっこない」と批判の嵐でした(苦笑)。当時は4年間の増収増益など今よりルールが厳格で男性経営者でも難しかったからでしょう。その半年後に上場を果たしましたが、ずっと隠し通すのもけっこう大変なことでした。

――それでも、IPOを実現できたのは、どうしてでしょう。

大河原  経営者の父から教えられた、成せば成る、Can do精神です。子どものころ「できない、難しい」と言ったら、父からそんなことは言わせない、「Can do Can do Can do…」と言われて育ちました。大人になってからも、Can do精神で、常に前向きにやりなさいと。

 父だけではなく夫も弟も、それぞれ経営者なので、質問すれば的確な助言を得られます。夫はピザハット、弟はドミノピザで競合する部分もあって家庭で企業秘密は話せませんので、チャイニーズウオール(情報の遮断壁)を作っていました。でも家族でよく食事会をしていて、ビジネスそのものの話をしたり、討論したり、刺激を受けていました。海外の情報もずいぶん教えてもらいましたね。

1981年ごろ、自宅の前で家族とともに

情報収集は欠かせない。    「おばあさんになってる暇はない」

――2013年にWCD(ウィメン・コーポレート・ディレクターズ)日本支部を立ち上げたのは、日本のリーダーを育てるのが目的ですか?

大河原 ニューヨークに本部をおくWCDは上場企業の女性役員のネットワークで、世界60カ国以上に支部があります。日本支部を立ち上げたのは、社外取締役の女性を増やすのが目的でした。当時は女性取締役に関するデータがなかったので、『会社四季報』を買ってきて、虫眼鏡で役員氏名をチェックして女性の人数を数えてみたんです。すると、女性役員はわずか2%ほどに過ぎませんでした。当時すでに「女性役員を30%にしよう」という話が出ていましたが、まずは10%を目指そうと考えて、日本のWCDを立ち上げたんです。四季報で調べた女性たちに声をかけて、ガバナンス(企業統治)の勉強などを始めました。

――2004年には食品業界の女性ネットワーク「WF-NET」を立ち上げています。

大河原 この会は、食品業界で活躍する女性が、お互いの工場を訪問したり、海外視察でビジネスチャンスをみつけたりするなど、ビジネスが目的のネットワークです。先日はドイツでANUGA(世界最大の食品展示会)を見てきたほか、ベルギーでワインやクッキー、チョコレートのメーカーなどを訪問しました。今後、ベルギーから品質のよい食材や食品を輸入することを見越しての視察です。

――リーダーとして先陣を切ってきた大河原さんから、次世代の女性リーダーへのメッセージをお願いします。

大河原 「こうなりたい、こんなことをやりたい」と考えるだけでは足りない、具体的な目標をセットして、どこまで実現できているかを毎年確認することが重要です。そして、どんなに素晴らしい人でもひとりではできないこともありますから、必ず仲間を作ってください。そうすれば勇気づけられるし、相談相手にもなってもらえて、大きな支えになります。私にとっては、LS111もその一つでした。

――「男性のように考え、女性らしく振舞い、馬車馬のように働く」、これをモットーとしてきたと伺いました。

 以前は男性よりも働かないと認められなかったので、私も馬車馬のように働いていました。いまワークライフバランスが大事だといわれていますが、経営者はやはり馬車馬のように働かないといけない、男女一緒ですよ。日本国内だけではなく、世界の競争がありますから。少しでも油断すると海外のいいものが入ってくるから、常に情報をキャッチしておかないといけません。ただ、今は体で働くのではなく、頭で働くんですよね、それが重要です。

 そして、女性ですから、レディのように、エレガントにふるまうこと。男性のような言葉使いや振る舞いを真似する必要はありません。英国のサッチャー元首相も、米国の元国務長官のオルブライトさんも、すごくパワフルですけど、みなエレガント。女性リーダーは、男性のようにならなくてもいいのです。

――いまも在日大使や各国のトップリーダーと交流を続けています。会話の秘訣は?

大河原 昔の話ですが、イギリスのマーガレット・サッチャー首相(当時)が来日されたときに英国大使館での食事会に招待されました。ご存じのとおり、サッチャー氏は新自由主義に基づいて国有企業の民営化や規制緩和を断行し、経済再建に尽力した方です。そこで英国経済政策にからめて「今、日本の経済は低調ですが、どうしたらいいでしょう?」と聞きました。すると、「そうね、私を総理大臣にすれば大丈夫よ」と即答されました。すごい回答ですよね(笑)。こうした会合や食事会は、発言しない人は二度と招待されないので、しっかり勉強してネタを準備して臨む必要があるんです。いろいろな分野の方と交流するために日々情報収集に励んで、世界情勢や各国の課題なども勉強しなくてはいけない。「おばあさん」になっている暇はないわね(笑)。

ミニ Q&A

Q 心身の健康法は

散歩ですね、一人で歩くこと。ただ歩くだけじゃなくて、今日やること、明日は何を目指すかなど何か考えるわけ、楽しいです。

Q 好きなブランドは 

芦田淳さんや渡辺弘二さん。日本のブランドのほうが日本人に合わせて作られているから着心地がいい。それに、日本のブランドを応援したいんです。

Q いま注目している食のトレンドは?

A 植物由来、プラントベースの食ですね。お肉を一切つかわない、ベジタリアンより厳しいビーガンが欧米では増えています。我々も今そうしたピザを研究しています。

おおがわら・あいこ 1941年、米国ハワイ州ホノルル生まれ。ホノルルの中学校を卒業後、1年間東京のアメリカンスクールで学んだのち、16歳のとき飛び級で米ノースウエスタン大学に入学。スイスのジュネーブ大学法律学部に移り国際弁護士資格を取得。64年に卒業とともに日本に戻り、66年に父親が創業したピザの輸入販売会社ジェーシー・フーズ(現デルソーレ)代表取締役社長に就任。93年に外国人女性としては初、女性起業家としては史上2人目となるJASDAQ(現グロース市場)上場を果たす。在日米国商工会議所副会頭、経済同友会幹事など歴任。91年にニュービジネス協議会の女性起業家大賞、94年にヴーヴ・クリコ(仏)のビジネス・ウーマン・オブ・ザ・イヤー、2023年に日本食料新聞社の食料産業特別貢献大賞などを受賞。

(動画/ベイビー・プラネット、写真/竹井俊晴、文/加納美紀、インタビュー/野村浩子)