リーダーシップ111(ワンワンワン)

2011年11月11日、金曜日の夜、女性就業支援センター(東京都港区芝5-35-3)4階ホールにて、「It's Now!」女性が社会を動かす時」と題するシンポジウムが開催されました。

大震災を境に、日本人の価値観が、お金やモノより「人と人の絆」へと変化し、人に必要とされ社会に貢献することの尊さに気づく人たちが増えてきました。
今回のシンポジウムでは、世界的な視野を持ち、社会的な課題を解決するべく活躍している女性リーダーたちを迎え、パネルディスカッションを行いました。

司会:ただいまから、リーダーシップ111シンポジウム2011、「It's Now! 女性が社会を動かす時」を開催したいと思います。
私は、今日の進行役を仰せつかりました、リーダーシップ111会員の宮崎綾子と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。

ちょうど8カ月前の今日、まだ記憶に新しいと思いますが、東日本大震災があり、大津波がきて、原発の事故があり8カ月たった今も、みなさんも、なんとなく不安な状況におかれていると思います。このような中で、いろいろなことを人は考え、私たちも、今までの生き方で本当にいいのだろうか。これからどういう風に生きていけばいいのか、これまでの価値観を改めて問い直されているのではないかと思います。
今日は、さまざまな分野で力を発揮しておられるパネリストの方にお集まりいただき、こういう時に女性がどういう力を発揮できるのか、お話しいただきたいと思います。
さっそくご紹介いたします。
皆さまから向かって右から、株式会社マザーハウス代表取締役、兼デザイナ―の山口絵理子さん、特定非営利活動法人「JEN」理事・事務局長の木山啓子さん、NPO法人勇気の翼インクルージョン2015理事長、細川佳代子さん、日本経済新聞編集委員、野村浩子さん。
そして、モデレーターを務めるのは、リーダーシップ111代表、上智大学名誉教授の目黒依子さんです。
それでは、目黒依子さんからご挨拶をいただいて、さっそくシンポジウムに入っていただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

震災以降、人々の価値観、社会の在り方が問い直されている。

目黒:ご紹介ありがとうございました。代表の目黒依子でございます。本日は、雨の中を私たちのシンポジウムにご参加くださり、真にありがとうございます。
最初に、リーダーシップ111についてご紹介したいと思います。
リーダーシップ111は、いろいろな分野で活躍する女性たちの緩やかなネットワークです。
1994年に、各分野で点で生きてきた、それまで存在しなかったような女性リーダーたちが、線として面としてつながり、自分たちの問題をお互いに分かち合って、慰め合い勇気づけ合って、社会に向けて発信すべきことはしていこうということで集まり、立ち上げました。
海外に向けての発信や次世代育成も含め、いろいろな活動をしてきました。
111というのは、1994年が戌年だったので、とにかくワンワン吠えて、発信していこうということで、あまり芸のないネーミングですが、100人前後のメンバーでスタートしました。

さて、今日のシンポジウムの主旨を説明いたします。
3.11の東日本大震災という大規模災害は、日本人の生き方、価値観、日本社会の制度やガバナンスについて、わたしたちに再考を促すような大きなインパクトを与えました。さらに経済大国として、開発途上国を支援する立場にあった日本に対し、多くの途上国や、国際機関、NGOから支援の手が差し伸べられました。国際関係は、人道関係であるということだと思います。つまり、グローバルな人と人とのつながりという価値をわたしたちの心に喚起させるきっかけともなりました。
8カ月たった今、災害・復興プロセスを通して明らかになったこと、それは、これまでの日本社会のしくみ、ガバナンス、社会規範が、そのまま凝縮されて復興プロセスに反映されていたということです。
被災現場でボランティアに関わる人の多くが女性や若者で、現場の多様なニーズに対応しようとしていたのに対し、避難所から国会に至るさまざまなレベルでの方針を決定する議論は、社会の実態からかけはなれた従来通りの男性中心の発想で占められていました。現場の実態の多様性に対する、視点が欠落した、包摂(inclusion)の原則から程遠いものです。
しかし、この間に数百のNPOが被災地で活躍し、企業でもCSRを越えて、よりよい社会づくりに貢献しようと動き出しました。社会の課題を解決するための事業を起こす、ソーシャルビジネスを目指す若者も、増えております。
こうした、起業とNPOの連携が始まりました。そして、このような領域では、随分前から多くの女性たちが、活躍していました。
今回のシンポジウムでは、NPOやソーシャルビジネスでリーダーシップを発揮されてきたロールモデルをパネリストとしてお招きしています。世界を視野におさめ、地域や企業、行政、国など、従来の枠を超えた連携の中で活躍する女性たちのパワーは、今の日本を動かす原動力となります。
このシンポジウムのタイトルは、日本語で「今こそ」では弱い、どうしてもIt’s Now」でなければいけないとうことで、このようになりました。
シンポジウムの形としては、4人のパネリストに10分ずつお話しいただき、そのあとでディスカッションをしたいと思います。
それではさっそく、日本経済新聞社 編集委員の野村浩子さんに、最近注目度が高まりつつあるNPOやソーシャルビジネスの実情について、お話しいただきたいと思います。

野村:私は、ほかの3人のパネリストの皆さんとは少し立ち位置が違いまして、皆さんのよう活躍がなぜ注目されているのか、企業との関係はどうなのか、両者の橋渡しをする役目を仰せつかっていますので、その観点からお話ししたいと思います。
まず、今日のパネリストの皆さんにご登壇いただいた理由ですが、ひと言で言うと、3.11以降、社会的課題を解決するリーダーが非常に求められている。その分野でリーダーシップを発揮することがいかに大事かということをお話しいただくためにお越しいただきました。
震災以降、NPOの代表や、ソーシャルビジネスという分野で社会的課題を解決しつつ事業としても成立させている経営者などが、非常に存在感を増してきています。今回のパネラーのみなさんは、まさにその分野で大変積極的にリーダーシップを発揮されています。私は日経新聞の前に、日経ウーマンという雑誌の編集を10年手がけておりまして、その頃からこのお三方とは取材で知り合っていました。

細川さんは、知的障害者の方の問題に大きな光をあてた方です。また、東日本大震災に先立つから、ボランティアの意義をき続けておられます。さらに、個人からだけでなく、企業からも寄附を集める、ファンドレイジング(NPOが、活動のための資金を個人、法人、政府などから集める行為の総称)ということでも非常にお手本になる方だと思います。

木山さんは、国際支援をする団体の代表として、日本を代表するリーダーの一人です。
財界、政府とNPOを結び付けて、コーディネートするジャパンプラットフォームの共同代表理事も務められています。

山口さんは、ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)の若手ホープで、今、若い人たちの憧れの方です。
ソーシャルアントレプレナーは、アメリカで生まれた言葉で、社会的課題を解決するという社会貢献性と事業性を車の両輪として両立させる、社会起業家のことです。
2000年前後から、若い社会起業家たちが登場し始め、20代から30代前半の素晴らしい方々が出てきています。

野村:このような、社会的課題を解決するリーダーの方々は、実はビジネスの分野でも注目されていて、大手の企業でも、社会起業家に学ぼうという機運が高まっているところです。

ご存知のように、今回の3.11で、被災地に企業からたくさんの社員ボランティアが派遣されました。その理由は、もちろん第一は被災地の支援なのですが、実はもう一つ、人材育成という意図があります。
どういうことかと言うと、これからは現地に出向いて、社会的課題というものを肌で感じ、答えがない中でゼロから解決策を考えていくという力が求められている。被災地でのボランティアは、それを実際に学ばせてもらう非常にいい機会だと企業が考えているということなのです。
かなりの時間とコストを割いて社員を送っていますが、現地での体験を持ち帰って、今後、新しい事業を起こしてほしいと会社は考えているわけです。

その理由は明らかで、日本の少子高齢化、それに対し地球全体では人口爆発が起こっている。食糧問題や地球環境問題など、さまざまな問題が起こっていて、一国の力だけでは解決できない状況になっている。このような中で、民間は何ができるのかということが非常に問われているのです。
そこで、社会貢献性と事業性を融合させる力が、非常に求められているのです。

被災地で培った視点は、新興国を相手としたBOPビジネス(世界で約40億人、市場規模約5兆ドルと言われる低所得者層(BOP=Base of the Pyramid)をターゲットとしたビジネスのこと)にもつながると言われています。

このような背景から、企業も、今、社会企業家の方に学ばせてもらおうという機運が強まっています。

3.11の少し前、今年の1月に、ハーバード・ビジネスレビュー(全世界で11ヶ国、60万人以上が読んでいるグローバル・マネジメント誌)で、ハーバード大学のマイケル・ポーター教授が、これからはCSRにとどまらず、CSVという考え方が必要になると提唱しています。
CSVとは、Creating Shared Value、共通価値の創造という意味です。
社会的課題の解決と、企業の利益向上を両立させ、社会にとっても企業にとっても利益をもたらす、それがCSVの考え方です。
その後、3.11があり、まさしくこれからはCSVの時代である、その分野でリーダーシップをとれる人材が必要になると私は考えています。

目黒:さて、社会的課題解決という価値のトレンドについてのお話を踏まえ、ここで、3人のパネリストの方々に、現在のご活躍について10分ずつ、お話しいただきたいと思います。


ビリーブクルーと記者会見細川さん

細川:私にはゼロから自分で立ち上げたNPOが5つあるのですが、その活動を10分で紹介するのは難しい。では何を話そうかと思ったのですが、今、全然別の話を思いついたのでそのことを話します。
今日は、午後1時半から京都で講演をし、その後、新幹線でこちらに参りました。こんなふうにいつも元気に飛び回っているのですが、細川さんのそのパワーはどこからくるのとよく言われます。特別に健康管理しているわけではなく、まったく自然体なのですが、あまりにも皆さんからすごいパワーだと言われるので、2、3年前になぜだろうと自分でもふと思って、人生を振り返ってみました。私の今があるのはなぜなんだろうと。
そうしたら、私の原点は、家庭教育と学校教育にあると気づいたのです。
それを考えたら、両親への感謝の思いで胸が一杯になりましたし、小さいときから育ててくださった、たくさんの学校の先生がたのお顔が次々と浮かんできました。そういう方たちのおかげで今の私があるのだと思っています。

今日は、「女性が社会を動かす」ということで、女性にスポットライトがあたっています。確かに今、日本は女性のほうが圧倒的に元気がある。今の社会を変えるには女性の力が必要だということも、私は全く賛成します。しかし、私は、女性とか男性とか全然意識したことはありません。
男でも女でもなく人間である。人間としていかに生きるべきかということをずっと考えてきました。
私は、両親がけんかをしているのを見たことがありません。本当に仲のいい両親でした。家庭環境というものが、どれだか子どもに影響するものかと考えると、そういう明るい、愛情にあふれた家庭に育ったことを本当に感謝しております。
子どもの頃は、神奈川県藤沢市の鵠沼海岸で育ちました。毎日海で遊んでいた非常に活発な少女でした。
幼稚園から高校までは、湘南白百合学園というカトリックの学校に通い、キリスト教の教育をうけました。一番私に影響を与えたのが、自分と同じように人を大切にする。隣人愛。相手の立場に立って考えることです。
小学校3年のとき、家で兄弟げんかもしたことがないのに、友だちと初めてケンカをしました。そのときは、子どもなりにとても苦しみました。
その後、5年生のときに、シスターから隣人愛ということを学びました。自分がケンカをして苦しんでいるときは、相手も同じように苦しんでいるという話を聞いて、そうだったんだ、相手も苦しかったんだとわかり、二度と一生けんかはしまいと誓いました。
そういう環境で、隣人愛、博愛、奉仕というキリスト教の基本を学んで育ちました。
中学のときに、当時、養老院という身寄りのないお年寄りが生活している施設があるということを聞いて、いても立ってもいられなくなり、友だちと訪ねて歌を歌いました。養老院は、何の飾りもない薄暗い部屋でしたので、みんなで絵を描いて養老院の壁に貼ったりもしました。
その頃から自然体で、今でいうボランティア活動を始めていました。
高校2年のクリスマスの劇では、皆に頼んで、私の憧れの女性だった細川ガラシャの劇をしました。その後、その細川家に嫁ぐとは思ってもいませんでしたが(笑)、何年も後に、結婚することになり、熊本のご先祖を祀った神社で結婚式をあげ熊本に住むことになりました。そこで子どもを育てました。神社の裏には、細川ガラシャ夫妻の御廟が並んでいます。明治の初めにできたものですが、戦後は誰も手入れをしていないおんぼろの御廟でしたが、毎日のようにお参りしました。そのとき、私はガラシャ夫人に対して同情心しかありませんでした。戦国時代に生まれたばっかりに政略結婚をさせられて、尊敬するお父様の明智光秀は謀反人と言われ、2年間山奥に閉じ込められて、そのあと一歩も屋敷から出させてもらえないで、最後には38歳で子どもを残して自ら死を選んだ。どれだけ辛い人生だっただろうと慰めの声をかけていたのです。
そうしたら、あるとき、ガラシャ夫人の声が聞こえてしまったのです。
あなたは私にいつも同情してくれる。だけど、私は精いっぱい生きて何の悔いもない人生だったのよ。それよりも死について考えずに日々漫然と暮らしているあなたたちのほうがよっぽどかわいそう。もっと死のことを、そして生きるということを真剣に考えて、日々を大切に暮らしなさい、そういう叱咤激励をいただいてしまいました。
それから私の人生が変わりました。
大学の経験も私に大きな影響を与えました。
上智大学に学びましたが、世界中から集まった神父さまがたがキリストの教えを信じ、日本に骨を埋める覚悟で若者の教育に一生をささげている。その生きざまに、なんて崇高な人生だろうと、これにも大変感動しました。
上智大学の精神はMen and women for others with others . つまり、他者のために他者とともに、なのです。
そこで5年間教育を受けて、23歳のときに、日本の企業から、日本で初めてのヨーロッパ駐在員として横浜港からたった一人で船に乗ってヨーロッパに渡り3年間働きました。
そのときだけはボランティア活動をできませんでしたが、その後結婚したあとは、ずっとボランティア活動をしてきました。
その流れの中で、「スペシャルオリンピックス」や「世界の子どもにワクチンを」の活動に出会って、ゼロから組織を立ち上げて、活動を始めたわけです。

木山:私は国際協力を仕事としてやっております。国際協力というと、みなさんは「緊急支援」を想像されると思います。緊急支援というと、炊き出しや、物資の配布などをイメージされる方が多いと思います。が、その炊き出しが人をダメにするというのをみなさんご覧になったことはあるでしょうか。
その問いかけへの答えは保留にしたまま、次の話をしたいと思います。
私は1994年に旧ユーゴスラビアに行き、国際協力の仕事に携わることになりました。細川さんとは全然違って、ぼーっと生きて、ぼーっと学校に行って、何も考えない人生を歩んできて、だた目の前の仕事に一生懸命やってきただけなのに、気がついたら旧ユーゴにいたというくらい、自然ななりゆきでした。
ユーゴスラビアは当時、まだ戦争中だったのですが、戦争の国に行くなんてことを考えもしませんでした。旧ユーゴは、セルビア人、クロアチア人、モスレムの三つ巴の戦いと言われる状態でした。前線をはさんで敵と味方が戦っていたので、前線に近づかなければ、そんなに危なくはなかった。そんな国で6カ月間働いて、一時帰国したときに、神戸に旅行に行きました。3泊4日の旅を終え、今日帰るというときに、ドーンと、これまで経験をしたことのない衝撃がありました。阪神淡路大震災でした。
そのときはそれほど大きな被害がでていたとは知らず、駅まで行って新幹線の運転再開までお茶でも飲もうかとオリエンタルホテルに行くと、そこは避難所になっていました。まるで、旧ユーゴで見た難民センターみたいだ、と思いました。
その夜、タクシーを拾うことができて、大阪まで帰ってきたのですが、道すがら、辺り一面のぺしゃんこにつぶれた家々を見ました。戦争の国で働いていた私の目には、「これは戦争だ」と強い衝撃を受けました。
今回3.11で東北に行きましたら、ものすごい被災状況でした。
阪神淡路大震災から17年間、さまざまなところで、紛争や災害など、ひどい破壊を見てきたのですが、それを全部合わせたくらいの被災状況だったのです。
ですから、今回は、「これは風のふく、音のない、地獄だ」と思いました。

そんな状況にある人たちに、食糧を提供するのも、炊き出しするのも当たり前だと思いますが、最初に申し上げたように、やり方によっては炊き出しが人をダメにすることもあるのです。
今回の、東北の炊き出しが、悪い影響を与えたかどうかはまだわかりません。


イラク学校修復事業調査2003年3月
子どもたちと木山さん

先月ハイチに出張してきたのですが、ハイチでは、20年間も食糧支援が行われています。20年の間には、種を配って、鋤や鍬も配って、自分たちで食糧を生産できるようになぜしないのか、それこそが人道支援だと思います。
本当に支援を必要としているから支援する、その支援によって依存が高まる。だからもっと援助をしないといけなくなる。そういう悪循環をしているところが、世界中のいろいろなところにある。それは支援のやり方によると思うのです。
国際支援それ自体は基本的にはいいことですが、やり方によっては、依存をさせて、その人たちの人生を壊してしまうことがあるのではないかということを、私たちJENは考えるようになりました。
JENの活動で、すごく大切にしていることは、自立を支えることです。
地獄のようなところにいて、本当に何もかもなくなってしまっても、一人ひとりの中にとてつもない力が眠っています。この人は落ち込みが激しくて立ち直れないのではないかと思うような方でも、輝かしい復活をとげられることがあります。
その輝かしい復活を支えるのは、一人ひとりのがんばりではありません。あまりにも落ち込んだとき、すべてを失って悲しいとき、何もする気になれないとき、人が一歩前に踏み出すことができるとしたら、それは、だれか別の人のためなんですね。
そのだれかのためだったら、人はがんばれる、っていうことに最初に気づいたのは、旧ユーゴスラビアにいたときでした。でも同じようなことを実は、イラクでもアフガニスタンでもスリランカでもハイチでもスーダンでも経験したんですね。今では、だれかのためだったら、極限的な状況でもがんばれるという力は、わたしたちのDNAに入っているとしか考えられない。ですから、DNAが、本来の力を発揮できるようにすること、それが、わたしたちのやっていきたい自立支援だと考えています。
そんな支援をやらせていただくというのが、私の活動です。

山口:私たちは、先進国で、途上国でできた商品を販売するという仕事をしています。現在、バングラデシュとネパールで、バッグや洋服を作って日本と台湾で販売しています。
わたしたちのミッションは「途上国から世界に通用するブランドをつくる」。かわいそうだから買ってあげるとか、大量生産の安かろう悪かろうというモノ作りではなくて、きちんとした誇りある商品を途上国から作ろういうのが基本的な理念です。
この夢を24歳のときにバングラデシュのダッカという場所で思いついて、あっという間に5年半が経ちました。


バングラデシュの工員と山口さん

商品を販売している店舗は、日本では銀座など7店舗、今年4月には、はじめての海外店舗を台湾にオープンしました。全部直営の自前の店舗です。
店舗は、お客様と直接出会える場所です。店舗でお客様から得た情報を、ものづくりに生かすために、自分たちのコントロール下における自社工場が必要だと思い、起業してから2年後の2008年に、バングラデシュに自社工場もかまえました。最初は2名の工員でスタートし、今は45人が働いています。11月27日に、最大200名くらいの工員が働ける広い敷地に工場を移転します。バングラデシュで、労働環境だけではなくて、キャパシティとしても5本の指に入る生産能力を目指したいと思っています。

工場から直営店舗、つまり、途上国と先進国を一つに結んだビジネスモデルが私のやりたいことです。
これまで200種類くらい、バッグのデザインをしてきましたが、すべて私が手掛けたものです。デザインなんてやったことはなかったのですが、途上国でのデザインというのは、決して絵を書くだけの仕事ではないなと実感しています。ものを作る前に、人を作らなければならない、人を作る前に工場環境を作らなければならない。工場の人にかける言葉とか、場の雰囲気をどうやってよくしていくかとか、そういうことから一つひとつやっていかないと、アジア最貧国から、アジアで最も品質の高いものにもっていくというのは本当に大変な作業でした。

手探りで工場のみんなに支えながら続けてきて、私たちの作った商品が、店舗に並び、売れることは、工場のみんなにとってすごく誇りになります。毎回、いくつ売れたよ、と報告することが、工場のみんなの次のシーズンは今シーズンを超えよう、というモチベーションアップにつながっていくのかなと思っています。

今、ネパールでも事業展開をしていますが、いろいろと問題もあります。
ネパールは、一日13時間くらい停電があるなど、企業としてやっていくにはインフラが整っていない。そんな中で、電気を使わないものづくりをやろうと、糸を手でつむぎ、染色し、機織り機にかけて、手作りでアパレルを作っています。

バングラデシュの人との意識の違いに驚くこともあります。
たとえば、バングラデシュで、「これ、だめじゃない」と言うと、バングラデシュの工員たちは皆、ハングリーなんですね。インドに負けまいと、倍ぐらい頑張る。
一方ネパールは、共産主義の国なので、労働習慣が違う。「これ、だめじゃない」と言ったら次から来なくなるんですね。
働くという意味も、ライフスタイルも違うので、「ああ、途上国ってひとくくりにできないな」と日々勉強しながらやっています。

そんなふうに、ダッカとカトマンズを往復しながらやっていますが、来年3月には台湾で2号店の出店が決まっていて、その後も香港、上海での出店を計画しています。
まずアジアで戦えるようなブランドを目指していきたいし、将来的にはヨーロッパ、アメリカへも必ず出店し、同時に生産地としても開拓していきたい。アメリカとか中東にもいろいろな素材が隠れているし、いろいろな人たちの可能性が眠っているのではないかと思うのです。グローバルに戦える商品づくりによって、途上国のイメージを変えていきたい、そんなふうに思っています。

[ディスカッション]

目黒:皆さん大変な情熱を持って、バラエティに富んだ活動をされていますが、そもそもそのような活動に飛びこまれたきっかけをお聞きしたいと思います。
最初に木山さん、なんとなく94年に旧ユーゴにいましたと言われましたが、あの内紛の時代に、なんとなくユーゴスラビアにいるはずはありませんので(笑)、きっと、何か理由があるはずだと思うのですが。

木山:きっかけというほどでもないのですが、これまでのことを振り返りたいと思います。
私は均等法直前の世代です。大学受験で進路や学部を決めるときに、漠然と、女性の地位向上のために、厳しい状況にある女性をサポートする弁護士のような仕事がしたいと思って、法学部を選びました。ところが、大学に入ってみると部活が楽しくて、勉強よりも部活に全精力を傾けました。卒業後は学校の先輩の紹介で就職し楽しく働いていたのですが、お茶くみ、コピーとりもやってみると奥が深く、上手にやろうと思うと案外大変なのです。先輩は苦も無くやってのけるけど、どうやっているんだろうと研究したり、目の前にあることを必死に心をこめてやることを楽しんでいました。
そのうち、営業成績がどんどん上がって、3年目に社内でも相当いい成績をあげることができました。そのとき同期の大卒男子が昇格しましたが、私はしませんでした。
成績はどうであれ、女性は5年、男性は3年で昇格するという規定があったからです。それはおかしいと上司に言ったら、確かにそれはおかしいと社長にかけあってくれた。すると社長もそれはおかしいと。
じゃあ、君だけ特別に来年4年目に昇格させてあげるということになったのですが、私は特別扱いがしてほしいのではなくて、みんな平等にしてほしい。それを訴え続けたのですがわかってもらえず、最後には、キミはそんなにお金がほしいのかと言われました。
うまく伝えられない自分は、学問が足りないのでは、もっと勉強しなければと思って留学したのです。その後、帰国したら、せっかく留学したのだからその経験を活かせる仕事に就きなさいと友人たちに説教されて、国際協力の関係の会社に就職しました。
そのときに、一生懸命やっていたのに成績が上がらず、戦力外通告までされました。
強いてきっかけがあったとすれば、その戦力外通告が私を変えてくれたのです。
そこで、現場経験を持とうと思い、現場経験をさせてくれるところを探したらNGOに行き着いた。そこで、旧ユーゴのプロジェクトをやることになり、ゼロからの立ち上げを経験をさせてもらいました。そのプロジェクトが、約一億円の予算で、半年で5つの事務所を立ち上げるという無謀な計画で、それを素人同然の私がやるという。
そこからが試練の始まりでした。
団体の運営がなかなかうまくいかない。事務所の雰囲気も悪い。何もかもがうまくいかない。どうしよう。毎日朝4時まで働いて、どろどろのまま朝8時に起きて、なんとか仕事に行くという、本当に人生の中で一番危機的な状況だったと思います。
精神的にも落ち込んで、新聞を読む気にもならないし、もう辛いなっていうときがありました。そのときに、中国古典、老子を教えてくれる先生に出会って、その方が、「そのままでいいよ、生きているだけで満点だよ」と言ってくれたことから、いろいろなことを楽しんで受け入れられるようになりました。それが私の転機かもしれません。

目黒:ありがとうございました。
均等法の前に同じような経験をされた女性はたくさんいると思うのですが、その後の展開が大きく違う。意識を持って留学し、NGを運営するようになって、危機的状況、転機、その解決法というところまでお聞きしました。
山口さんに、お聞きしたいのですが、そもそも今の活動に入ったきっかけや動機はどこにあったのでしょうか。経歴を拝見したところでは、小さいときから、ちょっと変わった生徒だったそうですが。

山口:簡単に言うと、小学校のときからいじめられていて、その頃から教育に対する違和感というのはありました。中学校のときに非行に走り、社会に対して迷惑をかけて、その後、更生してから柔道にのめり込んで、全国7位になり、努力をしたら報われる世界があるんだなということを教えてもらいました。
 その後、学問をしたいと思い、慶應大学に入ってからは、竹中平蔵先生に出会いました。そのときに、途上国実情を知り、大学2年の頃から、途上国のために働けたらと思うようになりました。4年生のときに、そのトップは国際機関だということを知って、ワシントンの世界銀行のグループの一つで、インターンをしました。そのときに、援助が本当に現場に届いているのかという疑問がわき、インターネットでアジア最貧国で検索をしたら、バングラデシュがヒットした。それでワシントンからバングラデシュに行って、そのままいついてしまった。
 バングラデシュの大学院の、初めての外国人学生として留学をして、一人暮らしを2年間し、援助以外の方法があるのではないか、かわいそうだから買うというフェアトレード以外の方法もあるのではないかと思ったのです。
 基本的に私は、やればできるんじゃないかと。バングラデシュの人たちは、貧しい国の人だけど貧しいものしか作れないわけではないと思っていた。
 でもバイヤーの人たちは、中国の何分の1の値段で作れるのかとみんな聞いてくるし、工場で働く人は13歳以下の子どももたくさんいる。その中で、彼らと話していて、だれか一人でもできるって信じたら、もしかしたら何か変わるんじゃないかなと、そういう思いがむくむくとわきあがってきて。
 その時に出会ったのが現地のジュートという、今私たちのバッグの素材に使っている草でした。現地でゴールデンファイバーと呼ばれるもので、ここにしかない。麻袋に使われていたのですが、麻袋をかわいいバッグにしようと。麻の生地を加工して、バイト代をはたいて、160個のバッグを作ったのがすべての始まりでした。

目黒:ありがとうございました。
細川さんにお聞きしたいのですが、小さいときから、隣人愛に目覚め、ボランティア活動をされてきて、途中で迷いとか、ぶれとか全くなかったのでしょうか。

細川:単純なんでしょうね、悩んだり、迷ったりということはほとんどありませんでした。
結婚した相手が政治家でしたので、しばらくは政治家の妻に徹しましたが、一方で、地元でボランティアをずっとやっておりました。
 夫が政治家をやめて、全くフリーになったときに、本格的に国際的なボランティアと国内の活動を何かやりたいと思って、たまたま出会ったのが、スペシャルオリンピックス(知的障害のある人たちにオリンピック競技種目に準じた様々なスポーツトレーニングとその成果の発表の場である競技会を、年間を通じ提供している国際的なスポーツ組織)という、活動でした。
 最初のきっかけは、ある牧師さんの言葉です。
 どんなに医学が進歩しても人間が生まれ続ける限り、人口の2%前後は、知的障害の子どもが生まれてくる。それは、その子のまわりにいる人たちに、優しさや思いやりを教えるために与えてくださった、神さまからのプレゼントだと。
 知的障害の子たちは、すごい能力や可能性を秘めて生まれてきているけれど、自分一人でそのことを発表したり伝えたりすることが不自由です。
 もしご家族やまわりの人たちが、一人ひとりの障害の困難さ、生きにくさを理解せずに、ただ能力の劣ったかわいそうな障害者と思いこんで、何もさせず、ただ守り、擁護し、最悪の場合隠して育ててしまったら、本来の可能性を何ひとつ伸ばすことなく、大変不幸な寂しい人生を送ることになるでしょう。この人たちが幸せになるか不幸になるかは、家庭や社会にどれだけ理解があるかどうかによってきまるのだと聞いて、本当にショックを受けた。
 それまで私は、障害のある人たちが安心して暮らせる施設がたくさんできることが、その人たちの幸せだと思いこんでいました。ところが、それは、障害のある人たちを全く社会から隠してしまうことです。本当にそれが彼らにとって幸せなのか、いかに私が自己中心で、健常者の傲慢さで、彼らをかわいそうな人と、憐れみ、同情心しか持っていなかったかと気づきました。
 この世に生まれてこなくていい人間は誰ひとりとしていません。全ての人間は一人ひとり意味があって、役目があって生まれてきている。障害者だって必ず役に立つために生まれてきたのだとやっと気が付きました。
 さっき木山さんがおっしゃったように、人間のDNAの中に、人の役に立ちたいという本能がある。その、役目を見つけることがすごい幸せなことなんですね。
せめて彼らの理解者であり支援者になりたいなと思いました。と同時に、私みたいに偏見を持っていて、障害者とはできれば関わりたくないと思っている多くの日本人に、、知的障害のある人やそのご家族がどんなに厳しい人生を送っているか、ご苦労をされているか気づいていただきたいと思いました。
早速、スポーツを通して、彼らの自立と社会参加を応援するという、スペシャルオリンピックスの活動を始めました。
年間を通して継続的にスポーツのトレーニングをすることによって、障害者がどんどん成長し、また支えているボランティアもみんな一緒に成長する。そういうすばらしい活動を熊本で始めたのです。
そのうち、世界大会に出たいということになって、では2年以内に「スペシャルオリンピクス日本」を立ち上げろと言われて、熊本以外、何か所も支部を作らなければならなくなり、日本中を走り回りました。
それで、2005年についに長野で世界大会を開くまでになったのです。
その間ずっと社会の偏見の壁と闘い、お金やボランティアを集めに苦労して。でも楽しみながらやることができました。なぜなら、関わった人が、みんなハマってしまうんです。彼らからたくさんのことをわたしたちは学んでいる。健常者の社会では気づかなかった、大切なことを、知的障害者との交流の中で私は、学ばせていただいた。この人たちこそ、社会に必要な人たちだと思いました。

わたしたちは、障害者たちのことを知らなくても何不自由しません。困ったり、恥ずかしい思いをすることもない。でも、これからは、障害者のことを知らなかったら、恥ずかしいという国にしたい。それで2007年に、勇気の翼インクルージョン2015(2009年にNPO法人となる)を立ち上げました。
2015年までに、障害のある人が普通にあたりまえに、地域社会に参加して、幸せに暮らせる地域社会をめざして、自分のできることを精いっぱいやっている最中です。

目黒:ありがとうございました。
まさに、インクルージョンというのは、この世に生れた全ての人間が、対等である、だからお互いにサポートし合う、一人では生きられないという人を支える、という考えが基本なので、途上国の自立を支援するということとも共通しますね。
さて、いろいろなお話を聞いて、野村さんはどう思われたでしょうか。

野村:聞いていますと、心が震えますよね。みなさんのパッションに触れると、会社員の私は何をしているんだろうという気になってしまいます。
が、実は会社員であっても、本業を活かして、こういう社会的な課題をなんらか解決できるはずなんですよね。もちろん、山口さんのように会社を立ち上げるというのが一番素晴らしいのかもしれませんが、皆がみな、起業家に向いているとは限りません。社員であっても、何かできるはずだ、それを見つけることが、最初に申し上げたように求められていると思います。
たとえば、知的障害者のお子さんの能力を高めるような、アイフォンのアプリを開発している人もいます。
また、アフリカ各国で船外エンジンの販売を拡大している、ヤマハ発動機という会社があるのですが、そこで開発を担当している方には青年海外協力隊出身の方が多いそうです。もともと、アフリカの貧困地域を支援する活動をしていた人を積極的に採用されている。
開発部長さんに、どのような人材が必要なのかとうかがったら、「その国が、いかによくなるかという視点をまず持っていること。それに加えて、それを自社の事業にどう結び付けるか、その2つの視点が必要だ」と。いかにわが社の船外エンジンを売り市場を拡大するか、という視点だというと、まず魚の獲り方から教えるそうです。こういう漁業がいいよと。そしてエンジンを売り、船のメンテナンスの仕方、エンジンのメンテナンスの仕方を教える。それらすべてが事業だとうかがいました。
漁師さんは、船外エンジンを買うことで、もう少し効率的に魚が採れる方法を見いだせるかもしれない。貧困から抜け出すきっかけをつかめるかもしれない。
そのように、企業の人も、商品を売るだけでなく、会社の本業を活かして何かできるはずだという発想をこれから持たなければならない。
だから、今企業は被災地に社員を送り出したり、NPOにプロボノ(職業上持っている知識・スキルや経験を活かして社会貢献するボランティア活動)を派遣したりする。 
たとえば、経理の知識を持っている人が、NPOで会計の手伝いをするとか、webデザイナ―が、NPOのwebを無償で作るというような、専門性を活かした、ホワイトカラーボランティア派遣を始めているのです。

木山さんのところにも、そういう企業がたくさんいらしているのではないでしょうか?

木山:そうですね。私たちの活動の一つに、いらなくなった本を無料で引き取りに伺い、それをブックオフさんが買い取って、買い取り金額が募金されるブックマジックという事業があるのですが、この活動を紹介するリーフレットは、大手広告代理店のデザイナーとコピーライターの方が無償で作ってくださいました。このようなプロボノの例もたくさんありますし、東北の被災地にも、JEN本部にも、たくさんの方々がボランティアで協力してくださっています。
 企業さんからは、作業を通して、社内ではあまりコミュニケーションできない部署の人同士の交流が始まり、チームビルディングにも役立っているという声もあります。
 また、国際協力、社会貢献に対する意識が高まるだけでなく、それをきっかけに、いろいろなことを考え、実行していくと、今度は逆に、会社をどういうふうによくしていくか、自分の会社の価値を高める活動をどうしたらいいかということも、いっしょに考えるようになるとうかがっています。

また、被災地の、津波で船も網も流され何もなくなってしまった漁業の方々が、復活するには新しいアイデアが必要です。それを、企業のボランティアの人たちがいっしょに考えてくれる。それが、サポートしている企業の方の、キャパシティビルディング(現地スタッフのスキルアップ)にもなっているようです。

目黒:確かに3.11以降、企業も、これまでと違った形で社会貢献をやろうとしています。これは今までの日本社会になかった新しいトレンドだと思うのですが、全体として見たときに、ある程度ゆとりのある企業か、あるいは特定の目的があればできるかもしれないが、一般の企業は、どうなのでしょうか。

野村:もちろん、これは先端企業の話であって、すべての企業が、CSVを意識して動き始めているかというと、まだ模索しているとのが現実だと思います。
ただ、そこに気づくか気づかないかは、企業が生き残れるかどうかに関わってくると思うのです。
ご存知のように、これから日本の国内市場が縮小していくのは必至です。さらなる成長を求めるなら社会的課題を解決し、新しいビジネスを生まなければいけない。もしくは、新興国にくいこんで新しい市場を開拓するしか道がないわけです。今そこに気づいているかどうかというのは企業の盛衰を左右すると言っても過言ではない。

木山:細川さんにお聞きしたかったのですが、実は知的障害者の方が、会社に入って働かれていることで、かえって業績がよくなるという話をたくさん聞くのです。そういう事例をご存知でしたら教えてください。

細川:おっしゃる通りです。
 たとえばユニクロでは、2001年から社長命令で、全国700数店舗すべてに必ず知的障害者を一人採用するという取り組みをしています。、一人の障害者がいることによって、他の社員たちが礼儀正しくなり、優しくなり、サービスがよくなるのだそうです。だからこれは、障害者の福祉のためではなく、戦略としての雇用なのだと。
ただ問題は、辞める方が意外に多い。やはり彼らは仲間がいたほうがいい。ですから、もうひと踏んばり、2人、3人雇っていただければと思います。
もう一社、日本理化学工業、知的障害者の雇用では50年の歴史があります。実に社員の7割が知的障害者の方です。職場の環境を彼らに合わせて工夫すれば、彼らは普通の人よりも正確にまじめに働くし信用できると。
これまでは、職場の環境が整っていない、現場に理解者がいないということで、なかなかうまくいかなかった。今はジョブコーチ(障害者が円滑に就労できるように、職場内外の支援環境を整える者)が見守る仕組みもできて、どんどん障害者の雇用が進んでいるのは事実です。とてもうれしいことです。

目黒:私からもう一つ質問してもよろしいでしょうか。
2008年に、リーマン・ショックが起きたあとに、アメリカの新聞の論評で、「もし、リーマン・ブラザーズが、リーマン・シスターズだったら」という記事が出ました。そこにはいろいろな含みがあるのですが、みなさんが活躍されてきたジャンルを考えて、もし、みなさんが男性だったら同じような経験をされ、同じような成果をあげたかどうか、ちょっと考えていただけませんか。
たとえば、山口さんが男だったら、今のようなビジネスをやっただろうか。続けているだろうか。

山口:今の仕事は、女性だから選んだというわけではありませんが、自分にしかできないことをやりたいとは思っていました。
バングラデシュで悩んでいたときに、バッグを作るということは、もしかしたら女性のほうが得意なこともあるかなと思っていました。小売とか製造の仕事には、感性の部分が大きな要素を占めていると思います。ディスプレイや接客サービスも、女性ならではのおもてなしが大事です。
また、「なんとなく」ということがすごく大事な世界だなと思っています。
 出店を決めるときも、私は「なんとなく、ここいいよね」といつも決めてしまうのですが、その「なんとなく」の感覚と、男性の副社長やナンバー3が、データ分析しながら出してくれる答えとが、ぶつかり合うことはよくあります。でも、そうやって議論しながら組織運営をしていることは、非常に健全ではないかと思います。

野村:山口さんがバングラデシュで、商社でアルバイトをしてそのときに、所長さんにはできないけど、山口さんにはできることがあるとおっしゃっていました。

山口:そうですね、ビジネスってどういうふうにまわっているのかなというのを知りたくて、三井物産のダッカ事務所でインターンをしていたときのことです。所長は、グローバルに活躍するビジネスマンで、何もかなわなくて。でも、私がジュート工場をぜひ見てくださいと言った時、汚いし、汗まみれになるから嫌がって何度言っても来てくれませんでした。ところが私はそんなに苦にならない。また、現地のプライドの高い人たちともぶつからずにコミュニケーションしてやっていくというのは、自分の中ではすごく楽しいこと仕事だなあと思うのですが、これが男同士だと、プライドがぶつかり合ってうまくいかないということが、途上国でもたくさんある。そんな中で、私は結構ぶつからずに、工場の中でいい雰囲気をつくることができた。これは、女性だからできたという部分はあるかもしれません。

細川:私は、男だったら絶対できなかったと思います。なぜなら、私は夫が養ってくれていたから、これだけ活動に没頭できたのです。90年代の活動は、全部持ち出しでした。経済的に夫が養ってくれなければできませんでした。2005年の世界大会を無事に開催することができたのも、幸いなことに夫が98年に政治家をやめて、政治家の妻をしなくてよくなったので、100%この活動にすべてをつぎ込むことができた。
 妻もしない母親もしない主婦もしない。ひどいことなのですが(笑)。これが男だったらこの活動できませんよ。こんな、全く知名度のない団体が世界大会を開こうなんて無謀なこと。だれもしなかったと思います。

目黒:自立しては、やっていけないものなのでしょうか。

野村:補助金漬けの事業じゃなくて、ちゃんとファンドレイジングされているわけですから、非常に自立して事業をまわしておられると思います。

細川:そうですね。「世界の子どもたちにワクチンを」も「スペシャルオリンピックス」も、20年近く、国から全く助成金なしでやってきました。全部民間の寄附だけです。ゼロから立ち上げたNPOに、年間約五億円の寄附を集めています。
以前から考えると信じられないことです。それだけ日本がかわってきた。個人や企業を含めて寄付文化が日本に育ったということでしょう。

目黒:日本が変わったという話にたどりつきました。
またさらに、3.11以来、日本にCSRの新しいトレンドが生まれてきたということも確認できました。
パネリストのみなさんに、これから目指す方向についてうかがおうと思いましたがもう時間となりました。
もうすでに私たちが確認したように、パネリストの方々は、すごく強烈な信念をもって生きておられる方々です。それぞれの想いを秘めて、活動を続けていかれることと思います。
そして、その強さは、最初からあったのではなく、だんだんと培われてきたものだとうかがいました。ですから、誰でも、その気になれば、どこまでかはできる、そういう自信をわたしたちは今日、得られたのではないかと思います。
そういうところで今回のシンポジウムを締めさせていただきたいと思います。
長い時間、ありがとうございました。